剱持松二四段(当時)と力道山アマ三段

田丸昇九段のブログ「と金横歩き」に、4月15日に行われた昇段者免状授与式でのことが書かれている。

今回、九段に昇段した田丸九段は昇段者を代表しての挨拶で、同じく九段に昇段した剱持松二九段の功績を讃えている。その中で、

  • 千駄ヶ谷の将棋会館を建設する際、剱持九段の尽力によって、剱持九段が将棋部の師範を務めていた三菱電機から多額の寄付金があったこと。
  • 将棋会館の4階には、特別対局室に次ぐ格の対局室として《高雄》の間がある。その名前の由来は、田丸九段の推測によると、会館が建設された当時、三菱電機が販売していたカラーテレビ《高雄》の名を、三菱電機への感謝の印として付けたのではないか。

と語っている。

4月15日の昇段者免状授与式で九段昇段の田丸が挨拶 (と金横歩き)

「高雄」は特別対局室の手前の部屋。

今まで「高雄」という名前の由来は気にしたことがなかったが、そのようなことがあったということは初めて知った。非常に興味深い話だ。

—–

今日は、剱持松二九段と三菱電機のことについて。

将棋世界1990年12月号、脚本家の石堂淑朗さんがホストの対談「石堂淑朗の本音対談」より。

ゲストは剱持松二七段(当時)。

石堂 話はとびますが、剱持さんは力道山と仲が良かったという記憶が濃厚なんですけど。

剱持 ええ。私は昔、三菱電機の社長さんに将棋を教えていたんですよ。升田幸三さんの紹介でそこへ教えに行くようになったんですが。もう亡くなった大久保さんという方がいまして、けい古しながら私がテレビに映っているプロレスを観ていたんです。それが縁で、先生、じゃあ今度行きましょうということで。

石堂 例の木村戦なんかもご覧になられた?あれは私は未だに覚えています。

剱持 ああ、そのちょっと後ですね。力道山に免状も出したんですよ。

石堂 へえー、本当に指したんですか。

剱持 えー、まあ、殆ど指してはいないんじゃないですかね。

石堂 (笑)。何段の免状ですか。

剱持 三段だったと思います。力道山が免状を欲しがりましてね。僕はいつもいくと、プロレスを見て、その後、リキパレスに食堂がありまして、そこで飲んでいたんです。

石堂 リキパレスって、渋谷にありましたね。覚えています。

剱持 大久保さんて、三菱電機の常務、副社長、社長、会長とやったんですが、その方といつものんでいたんです。大坪清隆という将棋好きなプロレスラーがいまして、毎週必ずのんでいたんです。九州山というレフリーをやっていた人がいて、その人も将棋が好きでね。

石堂 現役時代は足取りが得意の九州山、懐かしい名前ですね。僕は助監督時代に、力道山物語という映画につきあったことがありますが、映画というのは凄く待ち時間が多いんですよね、それで力道山はイライラしちゃってのんでいたビールの缶を手で引きちぎりまして、それを見て走って逃げだしたりした思い出があります。怖くなかったですか、力道山は。

剱持 いや、私はもう100回も隣で一緒にのんでいますから、年がら年中だから。毎週、何年っていっていましたから。プロレスで額を割って血を流しましてね、それがものの10分もすると、赤チンをちょっとつけただけで血もでていないんですね。

石堂 本当の血じゃないんでしょう。

剱持 いやいや本当ですよ。傷口を見せてくれますよ。骨が見えるぐらいの傷なんですが、すぐ血は止まるんです。大出血して、今日はひどかったねえなんて話をしながらのんでいるんです。その後ろで一緒に殴り合ったやつがのんでる(笑)。リングサイドではガンガンやるけど、おりると仲間みたいなものですから、だから八百長といわれてしまう。

石堂 ショーとして、楽しませるものとして、ある程度の手加減は最低限必要なことなんでしょうね。

剱持 だけど、僕もあの商売だけはやりたくないね(笑)。

石堂 剱持さんはご趣味は?

剱持 趣味というんじゃないですけど、昔コンピューターのパターン設計ということをやっていましてね。ICのつなぎかたをより効率よく作っていくということなんですが、私はその組みたてがうまく、日立や東芝といった企業から相当のお金を払うから是非やってくれと頼まれたこともありました。

石堂 それは凄い。将棋の読みと関係があるんですか。

剱持 そうです。頭の中で読みを組み立てていくわけです。あとは、ゴルフも熱中しましてハンデシングルまでいきました。カラオケは知らない歌でも歌えるんです(笑)。ただ器用貧乏で、なんでも広く浅くなんです。

石堂 剱持さんはお見受けしたところ、器用貧乏という言葉とはほど遠い方という感じがしますがね(笑)。

(以下略)

—–

橋本崇載八段、松本佳介六段、佐藤慎一四段、そして加藤一二三九段の師匠である剱持松二九段。

ここで出てくる”大久保さん”は、力道山が亡くなった翌年の1964年から1970年まで三菱電機社長、1970年から1975年まで会長を務めた故・大久保謙氏のこと。

大久保社長(当時)は力道山率いる日本プロレスの支援者でもあり、当時の日本テレビ「プロレス中継」は三菱電機が単独スポンサーでもあった。(当初は三菱ダイアモンド・アワーとして「ディズニーランド」との隔週)

プロレスのオールドファンならご存知の、メインイベント前に三菱電機の掃除機「風神」でリング上を掃き清めることも行われていた。

中継アナウンサーおよびリングアナウンサーが、「ただいまリング上を掃除しておりますのは、三菱電機の掃除機『風神』でございます」 のような解説だった。

当時の小学生は、ほとんど誰でも「風神」の名前を知っていたと思う。

もちろん「高雄」も。

—–

力道山は戦後の日本のヒーローであったが、酒を飲むと非常に粗暴な性格となり、弟子の若手レスラーに「ビール瓶を食え」というようなこともやっていたという。

ビール瓶を食べなければビール瓶で頭を殴られるので、若手の弟子たちは口中を血だらけにしながら泣く泣くビール瓶を食べていたということだ。(大下英治著「力道山の真実」より)

力道山の真実 (祥伝社文庫) 力道山の真実 (祥伝社文庫)
価格:¥ 700(税込)
発売日:2004-12

剱持四段(当時)と飲んでいる時は、もちろんそのような場とは別だったと思うが、そのような強烈な個性の力道山と100回以上も隣で平気で飲んだのだから、それだけとっても、剱持九段の卓越したコミュニケーション能力が分かるというものだ。

剱持七段(当時)は、テレビ東京で行われていた「早指し将棋選手権」創設の最大の功労者でもある。

—–

文中に出てくるプロレスラー大坪清隆は、飛車角というリングネーム。

大矢順正さんが1996年の近代将棋で思い出話を書いている。とても素晴らしい文章。

プロレスラー「飛車角」

九州山は戦前に活躍した力士で小結まで昇進した。

終戦とともに力士を廃業し、日本プロレス創設と同時にレフリーとして参加している。

—–

以前のブログ記事だが、湯川博士さんの剱持松二八段(当時)インタビューは見逃せない。

剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(1)

剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(2)

剱持が勝つと言えば絶対勝つ。(最終回)

コメントを残す