プロレスラー「飛車角」

今から40年以上前、リングネームが「飛車角」という将棋の強いプロレスラーがいた。

近代将棋1996年9月号、大矢順正さん「棋界こぼれ話」より。

(太字が大矢さんの文章)

(東京)五輪が終了した翌年からはプロレスの地方巡業取材となった。力道山の死後、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の二枚看板が活躍してプロレスブームが起きていた。

私も全国津々浦々を回った。そのころリングネーム「飛車角」という中年レスラーがいた。力道山が暴漢に襲われた日にこっそりと自宅に入れてくれたレスラーがその人だったのだ。

大矢さんは1963年に東京スポーツにカメラマンとして入社。その年の12月に大矢さんが新宿で飲んでいると、ラジオから

「力道山が赤坂のナイトクラブで暴漢にナイフで刺され重症、本人は救急車を断って自宅に帰った模様」。

大矢さんは、すぐに乃木坂にあるリキアパート(力道山の自宅があった)へ車を飛ばした。入り口には若手レスラーや関係者が大勢いたが、顔見知りだった「飛車角」が、そっと中に入れてくれた。

「世界一強い力道山が、ナイフで刺されたくらいで病院に行けるか!」と力道山は刺された脇腹を抱えて自室にいた。

翌日の紙面の一面トップに、その大矢さんの写真が掲載された。

飛車角は、小柄で前座を務めていたが、貴闘力並の張り手が得意で、本気になって相手の顔面に張り手を食らわす。

小兵ながら舞ノ海のような多彩な技でリング内を駆けめぐる、前座では欠かせない人気レスラーだった。

その飛車角には、もう一つ特徴があった。そう、将棋である。

アマ四段から五段くらいの実力があったようだ。地方巡業に行くと地元の真剣師と勝負するのを楽しみにしていた。

時にはひと巡業の手当てより将棋の稼ぎの方が多かった。

私が地方巡業に同行する際に、移動の列車の中で将棋を教わった。それは強制的なものだった。飛車角はいつもバッグの中にはレスリングシューズ、パンツと一緒に将棋盤と駒を入れていた。

定跡も知らない私に、基本的な定跡を教えるのだが、覚えの悪い私は列車の衆人環視の中で何度か平手打ちを食らったものだ。試合が終わると当方の宿まで来て寝せてくれない。

何の事はない、移動中の暇つぶしの相手をさせるために特訓をしたのだ。

アントニオ猪木も飛車角に手ほどきを受けて初段くらいになったはず。

私も控室で猪木の相手をして、勝ったばっかりに卍固めをかけられたことがあった。

飛車角は40代になると現役を引退して青山学院の近くで、学生相手の将棋喫茶を開店して、将棋を楽しんでいた。

人のいい飛車角は学生にも人気があった。

ある夏の夕刻、自宅に帰った飛車角がひと休みしているときに、小学生の息子が近くの川にはまって溺れている、という知らせが入った。

飛び出していった飛車角は、溺れている息子を助けんと川に飛び込んだ。

しかし、飛車角は泳ぎができなかった。

私は二日後の葬儀に将棋連盟から二万円の駒を買って仏壇に供えた。

——–

しんみりとしてしまうが、私はこういう話が大好きだ。

飛車角は、当初は本名と同じ大坪清隆というリングネームだったが、将棋が強かったことから、大坪飛車角というリングネームに変わった。

写真を見ると、本当に人柄の良さそうな顔と表情をしている。

日本人全レスラー名鑑(大坪清隆の項)