近代将棋1993年5月号、「昇級者のプロフィール」より。
C級2組へ(新四段)
三浦弘行
群馬から東京の連盟へ通うハンデを跳ね返したのは、毎日続けた詰将棋だった。百手を超すような長いものをやらないと落ち着かない。この鍛錬で培ったヨミの力がギリギリの終盤でものをいったのだ。
子供のころ無口だった少年と対話の糸口をつくるため、お父さん(四段)が将棋を教えたそうだ。まさに将棋は文化、棋は対話を地でいった家族だ。
棋風は振り飛車党だが、現在居飛車に転向すべく研究中とか。三段リーグで勝てなかった時に、自分が羽生だったら簡単に抜けれるのではないかと考え、羽生将棋を研究し真似したら勝てるようになった。これはいいと思ったものをすぐに実行する素直さと決断力の要素がある。
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「自分が羽生だったら簡単に抜けれるのではないかと考え、羽生将棋を研究し真似したら勝てるようになった」
これは、「自分が福山雅治だったら簡単にモテるのではないかと思い、福山流を研究し真似したらモテるようになった」、というよりも数百倍難しいことのような感じがする。
羽生将棋には、模倣をしやすい明確な形というものがないと思う。あるとすれば正しい手を指し続けるということと羽生マジック。
福山雅治さんのマネをしてモテるようになる難しさを100万MPとすると、羽生将棋を真似て勝つようになるには1億MP以上必要だ。
それだけ、三浦弘行三段(当時)には、実力と吸収力が兼ね備わっていたということだと思う。