村山聖八段(当時)と橋本崇載三段(当時)

近代将棋2005年3月号、故・池崎和記さんの「関西つれづれ日記」より。

 ところで橋本さんといえば髪型がすごい。金色に染め、パーマもかけているから、何とも派手だ。これについても聞いてみた。

「その髪型、何というんですか。ライオンカットとか何とか、名前がついてるんですか」

「名前はないですよ(笑)。単に金髪なだけで……」

「セット代が高いでしょう」

「1万円ちょっとです。実は僕はこの髪が最近、インターネットで話題になってまして」

「ほう」

「僕はNHK杯戦で羽生さんと対戦するんですけど、ネットで”人間と動物の対決”と書かれました(笑)。動物ですよ!」

「ははは」

「近代将棋の取材も受けました」(先月号のグラビアページのことだろう)

 見た目は派手だが、しかし橋本さんは非常にまじめな棋士で、性格もきわめて素直である。

 彼は奨励会時代、一時、関西に所属していたことがあって控え室によく来ていた。村山聖九段がまだ生きていたころで、村山さんと練習将棋も指していたっけ。

 思い出すのは7年前の村山-丸山戦(全日本プロ)だ。僕が観戦し、感想戦が終わってから村山さんに夕食に誘われた。そばに橋本さんがいたので村山さんは橋本さんにも声をかけ、3人でイタリア料理の専門店に入った。コース料理を頼み、ワインも飲んで(橋本さんは未成年だったからノンアルコール)、勘定は僕と村山さんで折半にした記憶がある。村山さんが亡くなったのはその8ヵ月後である。

 しばらくして橋本さんはお父さんの転勤で関東奨励会に戻り、以後ずっと東京に住んでいるが、最近また、ご両親が関西に転居した。だから僕は橋本さんに「関西に移籍して下さい」と言っているのだが、彼の返事は「ええ、まあ」である。これって、イエス?それともノー?」

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この全日本プロトーナメント 村山聖八段-丸山忠久七段戦は1997年12月29日に行われている。(村山八段の勝ち)

村山聖九段が亡くなる前の年の御用納めの日の夜のこと。

同じ年の7月のB級1組順位戦 村山-丸山戦では、深夜に及ぶ壮絶な戦いがあった。

1997年7月の村山聖八段

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橋本崇載八段と村山聖九段に接点があったとは、時代的に意外な感じがするが、村山八段が橋本三段を可愛がっていたことがわかるエピソードだ。

橋本崇載八段は、池崎さんが書かれているとおり、非常に真面目で素直。

橋本崇載八段の奨励会時代のことは、池崎さんがリアルタイムで書かれている。

近代将棋1999年5月号、池崎和記さんの「普段着の棋士たち 関西編」より。

関西将棋会館で谷川-加藤と井上-島のA級順位戦。

(中略)

 夕休再開後、3回控え室の研究をのぞいていたら、入り口付近で加藤九段がうろうろしているのが見えた。

「何かご用でしょうか」と聞くと、「だれかケーキを買ってきてくれないでしょうか」とのこと。

 その声が聞こえたのか、部屋の奥から「いい子がいます!」と神崎六段の大きな声。出てきたのは同門の橋本三段(15歳)だ。加藤先生の注文は「ショートケーキを3つ」。といっても、こんな時間に近くのケーキ屋さんはあいてないので、橋本君はホテルプラザへ走った。

 あとは塾生から聴いたのだが、加藤先生は夕方、天ぷら定食を注文したのに、なぜか天ぷらを食べ残していたそうだ。順位戦は長い将棋だから、そのぶん、ケーキで栄養補給しようということだったんだろう。

 ところが、勝負が終わってから対局室をのぞくと、ケーキは2つ残っていた。あれれ、どうなってるの。

 感想戦が終わってから谷川さんと飲みにいく、そこで私がケーキの話を持ち出すと、谷川さんは、あきれた、という顔をしてこう言った。

「加藤先生は4時ごろ、ケーキを2つ食べてましたよ」

 うーむ。ということはケーキは全部で5つ頼んだのだ。天ぷらを残したワケが、これでわかった。

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近代将棋1999年12月号、故・池崎和さんの「普段着の棋士たち 関西編」より。

某月某日

 藤原五段宅で、橋本崇載三段(16歳)の歓送会。お父さんが長野に転勤になったので、それに合わせて橋本君も関東奨励会に移籍することになったのだ。もっとも橋本君はもともと関東奨励会の出身だから、厳密にいえば、古巣に戻ることになる。

 橋本君は若くて強いから、研究会でひっぱりだこで、藤原さんだけでなく有吉九段や伊藤博文五段ともよく将棋を指していた。控え室のヌシみたいな人だったから、私も指し手解説その他で、ずいぶんお世話になっている。ぜひ来期は四段昇段を決めてほしいと思う。

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橋本八段が関東所属の奨励会員だった頃→「先崎の少年時代のようだ」と言われた橋本崇載3級(当時)