行方尚史四段(当時)「泥だらけの純情」

近代将棋1993年11月号、「棋士インタビュー 行方尚史四段の巻 手探りの青春」より。

近代将棋同じ号より。

 どんな大棋士でも四段になったときが一番嬉しいという。平成5年前期の三段リーグはハイレベルの激戦が続けられたが、最終戦を待たずに一人の棋士が誕生した。故大山門下生であり、久々の青森県出身棋士である。青森は将棋が盛んな土地だがなかなかプロ棋士は出ず、地元ファンは諦めに似た感情すら抱きはじめていた。それだけに喜びは一入で、行方にかける期待も大きい。

帰ったら負け犬

 青森のファン待望の快挙、青森では三人目らしいですね(戦前は平野信助七段、戦後は池田修一五段。準棋士では寺田昭夫五段、工藤浩平五段が青森出身)。

 「はい、そうらしいですね。ふふ。でも僕、小学校出てすぐこちらへ出てきたので、あまり青森という意識はないんですよ、今のところ。それより自分のことで精一杯でしたから・・・」

 ほかにも奨励会に入った子はいたのでしょう。

 「二人いましたが、やめました」

 青森からだと、一人暮らしになるのだろうけど、そういうことが(退会の)原因のひとつになるのじゃないのかな。

 「そうかもしれません。僕は住まいも何回も変わったり、学校も嫌になって行かなかったり、めちゃめちゃになっていました・・・」

 そもそも、どういった経緯でプロ入りを意識したのですか。

 「地元弘前の道場へ通うようになったのが小学校4年生の時です。5年の時に、津軽地方の小中学生の大会があって、僕が優勝しちゃったんです。といっても初段の免状いただいた程度の大会ですが、それから東京の研修会へ通うことになって。・・・あの、そのころの僕なんか、主体性がまったくなくて、周りに言われたように流されていったんです。・・・今考えるとちょっと無理な選択だったな、と」

 研修会へ通うといってもたいへんでしょう。

 「月に2回、土曜の夜行列車で行って、朝上野から直接将棋連盟へ行き、対局が終わってからまた夜行で青森へ帰る・・・」

 帰るのは月曜になるけど、学校へは間に合うの。

 「それが間に合わない。でも学校の理解で特別扱いになっていて、少し遅刻していくのがふつうになっちゃって。そのころからふつうの少年じゃなくなった。そのためか、プロ棋士になる道しかないというか、周りもそう見ているし自分も半ば強引に道をつくって歩いていたような感じでしたね。今想うと・・・。それに将棋以外の興味がなくてなんにもやんなくなっちゃった」

 将棋のプロ棋士になろうという少年がいて、学校中が注目し期待し、あるいは明日にでもなるように想われているとしたら、少年の歩く道はひとつしかない。しかし初めは自分が好きで始めたことなのに、どうして半分強制的な気持ちが沸くのか。自分の気持ちより周りの気持ちが前に行っていたのかもしれない。

 「それで小学校を卒業してから、道場の宮崎忠雄さんの紹介で大山門下になったのです。住まいは先生の近くの荻窪に一人で下宿をしました」

 ホームシックにはかからなかった?

 「それはないのですが、病気になった。ええ、喘息です。ま、不養生が原因でしょうね。あの、僕、下宿屋アパート何回も変わっているんですよ」

 下宿の話になると、体や指や表情が忙しく動きだした。なにかを訴えたいような気持ちが体からにじみ出ている。

 「下宿の大家さんが嫌味でね。学校の先生も大嫌いで・・・。毎日が嫌でしたね。理由・・・お前なんか田舎へ帰れって言うんです。先生が。大家も田舎へ帰れっていうし・・・」

 ひどい先生だね。なにが原因でそういうことになったのかな。

 「僕が朝起きられなくて、遅刻したり、喘息の時は休んだり・・・。体は、将棋やる前は野球やったり柔道やったり、丈夫だったんですけど、東京へ来てから生活が変わったのか。朝は辛いし、先生からしょっちゅう怒られるし、大家は嫌味な人だし。おかしくなりました」

 津軽から中学1年生が東京へ出て来てまったく違う生活をするんだから、おかしくなるのも当たり前だろう。先生もいじわるな気持ちでばかり言うのじゃなく一目見て東京の生活が合わないと思い、田舎へ帰れといったのかもしれない。ところが、この少年には容易に帰れないという気持ちが強かった。ところで親はなんと言っていました。

 「親はしょっちゅう帰って来いと、電話が来ていたけど・・・僕は・・・帰ったら負け犬になると思っていました」

 学校の好意に甘えて特別扱いされた少年が、はい、駄目でしたとはおめおめ帰れない、と。

 「そうですよー。なにもかも嫌だったけど、帰ったらお仕舞いと思っていましたね。将棋だけでなく、人生が・・・」

 どうして朝起きられないの。

 「ずっと一人でラジオ聞いたり、なんか深夜の気分に浸っているだけですけど。とにかく寝られないで悶々としている。それで朝方の6時ごろうとうととしているともう遅刻です。4時間目に行って給食食べて・・・」

 それじゃあ、先生に言われるかもね。奨励会のほうはどうだった。

 「こちらもひどくなって、遅刻や不戦敗が重なって、中学3年の終わりには2級から3級へ降級しました。2勝8敗で降級点、それを2回ですからね、過去にそういう人はいないって・・・。奨励会担当の先生も呆れて諦めているように感じました。ええ、でも怖くてね、馘(くび)になるのが。・・・とぼとぼ田舎へ帰る自分の姿が眼に映るんです」

 そういえばまえに出てもらった中田功五段も朝起きられなくて、と言っていたけど師匠(大山十五世名人)とは逆の弟子が集まるのかな。

 「ふふ、そうですね。でも奨励会は大山門下だから馘にならなかったのではと、思っています」

ようく、考えた

 中学生の時期というのはふつうは反抗期である。ただ、それは反抗する親がいるから、子供は安心してぶつかっていくのだ。そしてぶつかる感触を確かめながら成長していく。親元に居ないで一人で過ごす子供は、ぶつかっていく対象がない。世間からの攻撃をじっと耐えているだけになる。深夜一人でラジオを聞き気分に浸ることで、受けたキズを癒していたのかもしれない。少年にとってそれが唯一の反抗であり、ある意味では自衛の策だったのかもしれない。

 で、そういう泥沼状態から脱却したのはいつごろから。

 「中学を卒業・・・ふふ、そうなんですよ、それでもさせてくれたんです。その時点で高校進学を周りから奨められたので、都立高校へ一応は入ったんです。でも、同じことで、学校へはあまり行かないうちに辞めました。それからなんか開き直ったというか、フッ切れて。時間もたっぷりあるので、いろいろじっくり考えました。本も多少は読みましたし。そのころは練馬の大泉というところで、近くに牧場があって牛の糞の臭いが漂ってきて、近くには汚いドブ川があって」

 環境は抜群だね。

 「ふふ。ええ。学校へ行かなくていいから一日中ゆっくり考えられたのが、嬉しかった。それで、将棋で身を立てるしかない、という自覚が芽生えてきました」

 どういう状態で考えているの。

 「ボーッとして、音楽をかけ放して・・・」

 どんな音楽?

 「あのころはブルーハーツ」

 あの、レナウンのCM歌っていたグループかな。

 「ええ、でもCMのころのブルーハーツはなになってんのかな、なんて馬鹿にしてて。そのあと下火になってから好きになったんです。それを朝から晩まで聞いて、ぼんやりいろいろ考えて・・・」

 牛の臭いにドブ川の臭いがあって、それが青春だー(笑い)。神田川の大泉版だねぇ。

 「初段になったのは16歳、高校へ行っていれば2年の夏というあたりでした。僕の予定から2年遅れていましたけど」

 昔、大山名人が言っていた・・・初段通過年令でだいたい才能が分かります。14歳初段ならタイトルの一つや二つ取る。16歳なら挑戦者の可能性、18歳じゃ頑張ったとして五段止まり・・・が、今ではもっと年令が低いかもしれない。

 「一回落ちた3級から2級へ上がったのは早くて半年でした。あとはだいたい半年ごとに昇級して、ただし三段リーグに上がるとき、時期が悪くて半年ブランクになった。この時、ありとあらゆる悪い遊びを覚えて。貯えもなくなりました。いや、麻雀だけはやりません。なにか、あれをやっちゃあお仕舞いだみたいな感じがあって・・・。で、三段リーグの一期目はそういう影響が残っていたのか、6勝12敗。二期目が13勝5敗で次次点でした。この時はスタートでいきなり3連敗くっちゃって。とくにあとから入ったK君にまけたのが痛かった」

 大山名人が亡くなったのは二期目が始まる直前でしたね。そうとう影響ありましたか。

 「はい。・・・それはもう」

 兄弟子の中田功さんも発奮してC1組に昇級しましたし、行方君も四段に上がったし、名人の死は弟子を走らせたわけですね。

 「はい。それで走らないんじゃ、もうどうしようもないというか・・・」

 三段リーグの予想は難しいですね。強いと言われている人が上がれないで、意外な人が上がったり。

 「ええ、一度昇級のチャンスを逃すと、また一からかと、がっかりしちゃう。今までの積み重ねがゼロになるような気持ちなんです。反対に唯一のチャンスをモノにする人もいますし・・・。僕と同年が二人いるんですが、三段までずっとリードされていて、まさか自分が早く上がれるとは思わなかったです。強さ・・・三段の人は研究会でも先生方に負けないですよ」

 行方君の話を聞いていると、奨励会での成功は自己管理がそうとうのウエートを占めているように感じた。とくに精神面の構え方が勝敗を決するようだ。現代の少年にはこれは一番の難問であろう。彼は十分に時間をかけて考え、そこを通り抜けていった・・・。

 撮影のため、いっちょうらの夏物の背広を身繕いしながら「これ◯万円の安物なんです」と、照れた顔が輝いていた。

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行方尚史八段の奨励会時代は、辛い思い出話が続く。

中学1年の時から一人暮らしということも大きかった。

その若い頃の過酷な環境が、行方八段の強さ・粘り強さの源泉になったのだと思う。

行方尚史三段(当時)「もし奨励会を退会するようなことになれば、ぼくは死ぬ以外に無い」

行方尚史四段(当時)「四段昇段の記 血を吐くまで」

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練馬区大泉は東京都23区の西北部で自然豊かな環境だ。

現在も大泉学園町に牧場がある。

東京商工リサーチの調べによると、大泉学園町は、成城、田園調布に次いで社長が多く住む町であるという。

大泉学園は郷田真隆九段の実家があるところでもあり、またこの頃の郷田九段は実家に住んでいた。

郷田王位(当時)がこのインタビューを読んだとしたら、行方四段に大いに闘志を燃やしたのではないだろうか。