結婚1年前の森内俊之八段(当時)

月刊宝石2002年の何月号か、湯川恵子さんの「将棋・ワンダーランド」より。

 今回はチェスの話ですが、ぜひ書いておきたい。

 フランスのGMロチェが来日し、三面指しをした。その三人とは、羽生善治三冠、佐藤康光二冠、そして森内俊之名人だ。 

10月20日の日曜日。

 会場はNECの芝倶楽部。 

 インターネットで生中継されたこのイベント、いつかこの欄で紹介した若島正さん(京大の英米文学教授)が会長をつとめるチェス将棋交流協会主催だ。 

 羽生、佐藤は白(先手)番。森内戦は黒番と決まっていた。3人とも凄い研究を積んできたことが局後ロチェさんの話を聞いてわかったが、定跡など何も知らない私にも、シーンと静かな中にピンと張り詰めた空気がどんどん大きな興奮の渦に盛り上がってゆくようだった。   

 そもそも持ち時間が、各2時間の予定だったのをロチェさんの申し入れで上手2時間15分の下手側1時間45分と、逆ハンデがついたほど。真剣なのだ。  

 解説室も超満員。

 後援の日本将棋連盟から中原誠永世十段がかけつけた。

「後援といっても名ばかりで申し訳ない。私もちょっと覗きに来ただけなんですけどね」

 でも解説室と対局室を何度も往復してなかなか帰らない。

 コンピュータが並んだ部屋はインターネットに送信する人たち。NECの技術者と朝霞チェスクラブの面々だ。長考するロチェさんの貧乏ゆすりで対局テーブルを覆う白いクロスも揺れっぱなし。そんな映像までくっきり映る。盤上は特にフランスで注目され、1手ごとに有名強豪の感想が書き込まれてくる。 

 結果は、森内戦が、ドロー。佐藤さんが負け羽生さんが負けその後ずっと、1対1で続いた勝負だった。図は終了の局面。 ロチェさんの提案で森内さんが握手に応じた。

「残り時間も大差でしたし、まぁ、私の力では勝ち切れないと思いまして……」

 専門家が観ると指し続ければ黒の有利なエンディングになる局面だ。それは置いても、いわば外人が羽生や森内を相手に将棋を指して持将棋にしたという快挙。チェスを通じて実は将棋を世界にアピールした素晴らしい事件だと思う。

 2週後の日曜日に森内名人の結婚披露宴があり、なつかしいまきはさんの笑顔に再会した。

 去年の夏フランスのアヴォアンヌ村のチェス大会に出場した森内さんの姿をこの欄で紹介しましたね。あの稿には我慢して一言も書かなかったけど……あの旅でご一緒した彼女、まきはさんが新婦です。おめでとう!

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昨日の湯川恵子さんの記事から1年後。

昨日の記事(フランスのアヴォアンヌ村のチェス大会でのこと)の次の部分に注目いただきたい。

  当人はそれどころではない。本戦5日めの負けにひどくショックを受けた。終盤1手の見損じで好局を落としたらしい。早々に会場から消えた。

 宿舎の庭の遠くのほうで、どでーんと寝転んでいた。

 女子高の寄宿舎を選手に貸してくれている。何棟もの建物がおもちゃに見えるほど、広大な野原に整然と巨木が茂っている庭だ。遠くにポツンと見えた黒い陰がずっと動かない。仲間もみな声かけるのを憚った。

宿舎の庭の遠くのほうにいたのは森内俊之八段(当時)だけではなく、まきはさんも一緒。

湯川恵子さんの話によると、森内八段は、まきはさんの膝枕で寝ていたという。

声をかけては野暮になるので、仲間がみな声をかけるのを憚ったのは当然といえば当然。

全ての事実は描かれていないけれども嘘も書かれていない、湯川恵子さんの絶妙なバランス感覚だ。