将棋世界1992年8月号、鈴木宏彦さんの棋聖戦挑戦者・郷田四段にインタビュー「郷田クン」より。
最後のチャイルドブランド
最後のチャイルドブランド。郷田四段のことをこう呼ぶのはおかしい。郷田は21歳。もうチャイルドという年齢ではない。羽生や森内、佐藤康光がチャイルドブランドと呼ばれた時代はもう3年以上前のこと。当時、郷田は奨励会の三段リーグにいて、ちょっとばかり苦労をしていた。
だけど・・・、やっぱり郷田は最後のチャイルドブランドなのだと思う。羽生、森内、郷田。この3人は奨励会の同期、小学校の同学年。ついでにいえば、郷田が奨励会に入った昭和57年は将棋界にとって大豊作の年で、関東関西合わせて24人入った奨励会員のうち、羽生、森内、佐藤康光、小倉久史、木下浩一、豊川孝弘、飯塚祐紀、郷田と、8人がすでに棋士になっている。
チャイルドブランド族、末っ子の登場。今度の棋聖戦、谷川四冠王に挑む郷田に対して僕はそんな印象を持っている。しかもこの末っ子は「57年組」という将棋界を席巻する大波を締めるにふさわしい大物なのだ。
五番勝負は出たとこ勝負
―まず初めてのタイトル戦に挑む心境からうかがいましょう。谷川竜王とは初手合いなんですね。
郷田 そうです。ずっと目標にしてきた大先輩だし、思い切っていきたいですね。ただ、あまり実感がないんですよ。本当に自分がタイトル戦に出るのかなっていう感じ。自分より父の方が喜んだかもしれません(笑)。阿部さんに勝ったあと、『今回の将棋はできがよかった』と褒められました。父はアマの三段くらい指すんです。
―作戦は?
郷田 特に考えていません。出たとこ勝負というか、いつもあまり考えないんです。その場の気分で決めるという感じですね。
―挑戦者決定戦は今回が早くも3回目。さすがに今度は決めたいと思っていたでしょう。
郷田 最初のときは何がなんだか分からなかった。終盤にチャンスがあったけど、そこで勝てると思ったら余分な気持ちが入りました。2回目の南先生のときは勝ちたいと思った。ところが自分から転んでしまって・・・。あのときは負けた気がしなくて、悔しかった。今回は普段通りに指そうと思っていたし、それができたと思っています。
一部女性ファンの間にファンクラブ結成の動きがあったと噂されるハンサムマスクの郷田クンは、特に気負う様子もなく淡々と話してくれた。羽生棋王のような優等生タイプではない。先崎五段のような受けを狙うタイプでもない。ごく普通にごく普通の話をするんだけど、それでいてどこか秘密めいた部分がありそうで・・・。小さい頃からさぞ女の子にもてたんだろうと思う。将棋界の若手にいそうでいなかったのがこのタイプ。
遅れてきた大物
郷田真隆四段は昭和46年3月17日、東京の練馬区に生まれた。祖父は高名な医師。父親は製菓会社に勤めるサラリーマン。兄弟は二つ上の姉が一人。少し前まで家族と同居していたが、現在は世田谷のマンションを借りて一人で暮らしている。
―将棋を覚えたのは。
郷田 早いんです。物心がついたときにはもう将棋を指していたらしい。父親が好きで教えたんです。3歳くらいのときかな。自分では覚えていません。小学校1年生のときに雑誌の初段検定を受けて、小学校3年のときに練馬にあった師匠(大友昇八段)の将棋道場に通うようになりました。父親にはずっと勝てなかったけど、道場に通うようになってからいい勝負になった。
―羽生棋王や森内六段とは同級生なんですね。
郷田 そう。あと先崎君も。僕は2、3回しか大会には出ていないんですが、出たときは必ず羽生、森内の二人に当たりました(笑)。6年生のときに一度だけ小学生名人戦に出たんですが、僕は準優勝した山下君に負けた。あのときは羽生君が優勝、森内君が3位だった。そのときは足の骨を折っていて車イスで参加したんです。
―車イス!
郷田 学校で遊んでて、大柄な友達にのしかかられて大腿骨の複雑骨折。祖父が手回ししてくれて助かりましたけど。へたをすると片足を切断しなくてはいけなくなるというような大ケガでした。入院3ヵ月、リハビリに半年かかりましたけど、いま考えれば運がよかった。
―それは大変でしたね。いま、正座はなんともない?
郷田 ええ。ほとんど平気です。
―奨励会に入ったのが、その小学校6年生のときでしょう。
郷田 そうです。師匠に勧められたんですが、まだ弱かったから、師匠も1回で受かるとは思っていなかったらしい。同期入会はたくさんいたんですが、僕だけいきなり7級に落ちた。そこで3連勝したんですが、あのときは嬉しかった。
―奨励会生活は結局7年と少し。
郷田 二段までは早かったんです。7級から1級まで8ヵ月だったし、二段までも2年くらい。だけど二段と三段に5年半いました。
―ライバルたちに差をつけられて焦った?
郷田 初段のころは「あいつより早く上がりたい」という気持ちがありましたけど、そのうち差をつけられるのにも慣れてきた(笑)。まあ、多少昇級が遅れても自分の目標が変わるわけではありませんから、そんなに気にはなりませんでした。
屋敷六段の奨励会生活は2年9ヵ月。羽生棋王がちょうど3年。森内六段、佐藤康光六段が約4年半。確かにライバルたちの昇級ペースに比べたら郷田のペースは遅れている。
だが、郷田が言うように、棋士の勝負は20年、30年かけて最終的にどこまで行くかが問題なのだ。奨励会生活も四段になってからの棋士生活も、最終目標を達成するための勉強期間と考えれば、同じことである。
「昭和60年12月、僕は14歳で二段になっていた。まもなく高校へ入学した。高校のころ、僕はあまり将棋の勉強をしなかった。それでも、四段になんてすぐなれると思っていたのだから、甘かったというか、怖いもの知らずだったというか―。
僕はこの青春時代を大切にしたかった。人間として、そしていつの日か、僕の将棋にプラスになることだと思ったから。僕は、生まれて初めて自分より大切な人だと思うほど女の子を好きになった。
……この何年か、本当につらかった。でも、もう一度生まれ変わってあの場面に立っても、僕はやっぱり同じ道に進むのだと思う」(平成2年『将棋』夏季号。郷田四段昇段の自戦記より)
圧倒的に強い対上位戦
―挑戦者になるまでのことをうかがいましょう。とにかく棋聖戦の郷田さんは馬鹿強い。デビューした年にいきなり10連勝して挑戦者決定戦にまで勝ち進み、今回も羽生、加藤一二三、中原誠、阿部隆と破って挑戦者になっている。
郷田 相性がいいんですかね。自分では意識していません。
(中略)
郷田の成績の最大の特徴は上位の棋士に強いことだ。ちょっとだけ挙げてみても対中原名人戦=4勝、対加藤一二三九段戦=3勝1敗、対米長九段戦=2勝、対南九段戦=1勝1敗と、こういうことになる。
いくら地位に差があるとはいえ、中原名人としても四段相手に負け続けでは格好が悪い。というわけで、名人も3局目くらいからはかなり気合いを入れて対局に臨んでいると思われるのだが、いつも郷田がしぶとく競り勝つのである。これだけ上位に強い郷田が、C級2組順位戦ではこの2年、6勝4敗、5勝5敗という成績。これは不思議。
(中略)
終盤には自信あり
―郷田さんの将棋といえば長考ですよね。これは奨励会の頃から?
郷田 棋士になって持ち時間が長くなってからです。長い持ち時間が嬉しくてつい考えちゃうんです。時間がなくてもある程度は自信があるし、中原先生や米長先生が序盤で飛ばすことができるのは、やっぱり経験を積んでいるからだと思うんです。
―あれだけ上位に強い郷田さんが順位戦で勝てないのは不思議。
郷田 棋聖戦はもちろんですが、順位戦も勝ちたい。順位戦は全員が必死だから、そこで勝てないと仕方がない。
―研究会は。
郷田 森下さん、羽生君、森内君、佐藤康光君、その他のメンバーで月に4回くらいやっています。
―戦法に関してはなんでもやっていますね。
郷田 得意戦法がないんです。居飛車ならなんでもやります。
―序・中・終盤と分けたら好きなところは?
郷田 終盤ですね。勝ちのある局面なら、時間さえあれば読み切る自信があります。でもまあ、終盤はみんな自信を持っていますから。
「終盤はみんな自信を持っている」
郷田の世代は確かにそうなのだろう。ライバルたちに引っ張られるということもある。なにより、終盤が弱かったら、恐るべき昭和57年組の中で生き残れるはずがない。
最後に五番勝負の結果は?これは本人に聞いても意味がない。いろんな棋士に意見を聞いたが、代表として羽生棋王の見解を紹介しよう。
羽生「基本的に二人は棋風が似ているんです。鋭い攻めを主体に考えるが、難しい局面ではしっかりした受けも読んでいる。似た棋風同士の対戦となれば、上位の谷川先生が有利と考えるのが常識的でしょう。ただし、初挑戦で勢いに乗っていること、初手合いで相手の手の内が分からないこと、郷田君が上位に強いこと、谷川先生の実戦不足など、郷田君にとって有利な条件も結構あります。結論としては、結構いい勝負だと思います。郷田君も簡単には負けないでしょう」
羽生棋王に話を聞いたのが棋聖戦第1局の5日前。
ここまで原稿を書いてきたらちょうど第1局の結果が入ってきた。
なるほど!
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郷田真隆四段(当時)は、タイトル戦初挑戦の棋聖戦では谷川浩司棋聖に敗れてしまうが(◯●●●)、ほぼ並行して行われた王位戦で谷川王位に勝って(◯◯◯●●◯)王位を獲得する。
現在はタイトル挑戦で五段に昇段する規定となっているので、四段でのタイトル獲得は、後にも先にも郷田真隆九段だけということになる。
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郷田真隆九段の少年時代の大腿骨の複雑骨折、読んでいるだけでも胸が痛むアクシデントだ。
「祖父が手回ししてくれて助かりましたけど」とあるように、郷田九段のお祖父様は丸山ワクチンの丸山千里博士と同窓の皮膚科医。
可愛い孫の危機を救うべく、万全の医療を施せるよう奔走してくれたのだろう。
以前も書いたことだが、郷田真隆九段と三浦弘行九段の共通点の一つは、母方の祖父が医師だったこと。
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「僕は、生まれて初めて自分より大切な人だと思うほど女の子を好きになった。……この何年か、本当につらかった。でも、もう一度生まれ変わってあの場面に立っても、僕はやっぱり同じ道に進むのだと思う」
高校生時代の郷田九段に何があったのだろう。
郷田九段の高校時代については先崎学五段が少しだけ言及しているが、具体的なことはわからない。→1990年3月、郷田真隆四段誕生の日
魂を揺るがすような恋、そして悲劇的な別れがあったのだろうか・・・
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私は男子高(当時の宮城県はほとんどが男女別学)だったので、高校生時代の燃えるような恋はおろか、淡い恋さえも存在しなかった。
高校時代、同年代の女性と話をしたのは3回位だったと思う。
大学生、社会人になってからも女子高生と接する必然性はほとんどなく、そういった意味では私の人生の中での女子高生との関わりは非常に薄いということになる。
思い出してみると、社会人になってから現役の女子高生と会話をしたのは一度だけ。
2005年に三浦で行われた将棋ペンクラブ、世界に将棋を広める会共催の「原田先生を偲ぶ会」の旅行の時に鈴木環那女流1級(当時)とお話をした1回だ。
そういえばあの時は、占いと称して変な手品を鈴木女流1級にやってしまっている。
”京都の滝に3年打たれて身につけた占い”と私は説明しているが、それこそ昨日の記事の故・灘蓮照九段が滝に打たれていたことをヒントにして喋ったことだ。