二上達也八段(当時)のチップ

今日は羽生善治竜王の師匠、故・二上達也九段の話。

将棋マガジン1984年9月号、清水孝晏さんの「思い出の棋士たち 二上達也九段」より。

 真夏の暑い座敷の隅で詰襟服の青年とおつむに申し訳程度の毛の残った武田信玄といった奇妙な取り合せで将棋を指している。昭和二十四年のアマチュア名人戦でのことで、武田信玄みたいな人は真剣師として有名な内山竜馬六段。青年は北海道代表の二上達也であった。その将棋は予選を勝ちあがったトーナメントの第一戦とあって衆目を集めたが、当時流行の腰掛け銀の展開で、残念ながら二上青年は敗れた。が、そのサワヤカな戦いぶりはプロ棋士に評価され、翌年、渡辺八段門下として付けだし二段で奨励会に入ってきた。

 アマからの転入だが一皮剥けた切れ味があり、卒業するまで二番しか負けなかったと記憶する。

  いまもそうだが寡黙なひとで一人読書するのが趣味のようだった。世田谷のお兄さん宅に下宿していたが、そこには豪華な全集があった。この下宿先が二上さんの人生にかかわってくるとは、その頃の二上さんも思っていなかったのではなかろうか。

 隣人の可愛いカソリックの少女と結婚したのだから。それはずうっとあとのこと。訪問インタビューのとき好きな詰将棋の話になり「艦面全部に玉を配し、その位置の数字を足すと同じ数になる魔法陣の図式集 があるんだが」という。その頃は、まだ今日ほど出版ブームではなかったから「ガリ版でよかったら出しましょう」と約束。それが昭和二十八年の「将棋魔法陣」となって実現したのである。たった三百冊の出版だが私にとって想い出の本となった。そして、この訪問のときの写真を二上さは「よく撮れているいい写真だ」と誉めてくれた。いま考えると、将棋より(編注・当時筆者は奨励会員)写真のほうが腕がいいからという薦めの言葉であったのかも知れない。二上さんに、ぼっそりと言われると本当にそう思う。それが今日の私につながったのだというべきだろう。出会いとは有り難いものである。

 前述の郁子さんと、四谷の聖イグナチオ教会で結婚式をあげ、世田谷から杉並区田町のマンションに新居を構えた。早速またお邪魔する。あいにく約束の時間に二上さんは帰宅せず、待たしてもらう。雑談で「どうですか、この頃はお酒を少なくしていますか」といったところ、夫人は「えぇ、お酒呑むんですか」とおどろく。こちらも”これはしまったー”と、あわてた。どうやら呑んだときは、マンションの廻りをぐるぐるめぐって酔いを醒まして帰っていたらしい。

 そんならそうといっておいてくれればよいのにと思ったがあとの祭り。

 ややあって、二上さんは帰宅したが、インタビューもそこそこに逃げだした。あとは知らない二人は若い、である。数日後、二上さんに会ったが、そんなことはオクビにも出さない。二上さんとは、そういう人なのだ。

 この杉並の田町で長女・素子さんが生れた。ガミさんは”素直”という言葉が好きでログセだったが、その言葉通り長女を素子、次女に直子と名付けている。人口の増加(?)にともない杉並から京王線の聖跡桜ケ丘に瀟洒な家を造り移転した。もうその頃は夫人もおどろかなくなったのか、ある宵、数人のともがらを誘いローズなる店にいく。

?月?日

 本日雑誌校了なりたり。二上出版部長来たりていわく、今夕ともに呑むべしと。もちろん否や在るべけんや。階段を降りたるほの明るきルームに美女ありき。たちまち来たりて貴公子を囲む。将棋界の貴公子も、ここにありては別人の観あり、楽しき酒なりき。呑むほどに酔うほどに貴公子「あくしゅ」と声を発す。

「悪手」にあらず「握手」なり。その掌には千円、五千円とその人に適した額を忍ばす心遣いは、いとシャクなり。手あきの乙女があれば招きて、また握手。けだし人情、かくの如し。

 この”将棋随記”を書いていたとき私は二葉亭四迷、尾崎紅葉を愛読していたので、こんな書き方をしたのである。
  二上さんは頼まれると”イヤー”といったことがないのではなかろうか。それは、断わる言葉を捜すより”ハイー”というほうが簡単だという理由のようだ。もし、二上さんに”ノー”という言葉があったら棋界も変っていたにちがいない。元来が逆らうことのきらいな人なのだ。

 この柔らかさが二上さんの廻りに人を集める。昭和五十七年、人徳というか永年のお世話に感謝して二上さんに将棋大賞を贈った。もちろん棋聖位四期獲得もあってのことだが、みんなが諸手を挙げて喜んだのは、やはり人徳というべきか。

 将棋に関する運不運には異論があろうが、二上さんが大山、升田の全盛期に登場したのは不運というよりも、二上さん自身が、大山、升田を畏敬しすぎてしまっていることだ。

(以下略)

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二上達也九段は人格者として知られている。

人格者といっても、軟らかいところもきちんとある理想的なパターン。

将棋ペンクラブ名誉会長を引き受けていただいたこともあり、二上九段と接する機会が何度もあったのだが、本当にそう思う。

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二上九段は後輩棋士にご馳走するのはもちろんのこと、芹沢博文九段が酒場に作ったツケを代わりに支払うなど、良い意味で気前のよい綺麗なお金の使い方だった。

酒場の女性にチップを渡すのもその流れ。

席についた女性ばかりでなく、指名がなくて淋しそうにしている女性もわざわざ席に呼んで、チップを渡すのが二上流。

ある時は、居酒屋の厨房を手伝っている女性にもチップを渡したという話も残っている。

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チップを渡したからといって、何か見返りがあるわけではない。

今日は楽しませてくれてありがとう、と感謝の気持ちを伝えたかっただけなのかもしれない。

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今日は「羽生善治永世七冠達成並びに国民栄誉賞受賞記念祝賀会」が帝国ホテル東京で行われる日。

二上九段がお元気だったなら、祝賀会では表情は普段の通りだけれども心の中は喜びでいっぱい。祝賀会が終わったら、何人かを誘って新宿へ飲みに行く、という展開になっていただろう。

現在の羽生善治竜王と同じ年の頃の二上達也九段。将棋世界1979年1月号グラビア掲載の写真。