阪神・淡路大震災から今日で19年。
近代将棋1995年3月号、武者野勝巳六段(当時)の「マリオ六段の棋界奔走記」より。
阪神大地震の被害に遭われた関西地区の方々に心からお見舞い申し上げます。
1月17日はマリオの順位戦第8回戦の対局日でした。出かける前に何気なくテレビのスイッチを入れると、どのチャンネルでも「関西地区に大地震が襲った」と特別番組を組んで、倒壊した高速道路や燃え広がる火事の様子を映し出していました。何か映画のシーンを見るような不思議な心持ちでしばらく見入ってしまいましたが、それでもマリオは千駄ヶ谷に向かう車中で、「関西は地震が少ないから、あの映像は被害の大きな特定の地域の報道なのだろうな」と楽観的に考えていたのですが、将棋会館の対局掲示板に張り出された『地震の影響により本日の関西会館における対局は延期します』との文字を見て、ようやく容易ならざる事態に気づきました。順位戦の日程は1年分があらかじめ決まっており、親の危篤でも変えることができない厳正なもの。まして星勘定の微妙なリーグ終盤で、一部の人の日程を延期するなど、それ自体が異例中の異例だったからです。
持ち時間が6時間ある順位戦の序盤は腹のさぐり合い。長丁場のマラソンをすべて全力疾走で駆け抜けるというわけにはいかないので、午前中は控え室でのんびりするというのがマリオのリズムなのですが、この日は高嶋弘光八段、森信雄六段、藤原直哉五段などといった関西棋士が入れ替わり現れて、テレビを食い入るように見つめています。やがて奈良県在住の高島八段は電話が通じたようで、「私の方は大丈夫らしい」とホッと一安心。宝塚市在住の森六段は「家には連絡がついて無事らしいけど、神戸には知り合いが多いからなあ・・・」とくもり顔。一番気が晴れないのは電話連絡もとれない藤原五段で、震源に近い神戸市須磨区在住とあって次々と映し出される映像を見るその目は今にも泣き出しそう。
将棋連盟の対局事務を取り仕切る手合課は、朝から手分けして関西在住棋士に電話を掛けまくります。一人また一人と無事が確認される度に斜線が引かれ、午後に大阪在住の棋士は全員の無事が確認されたのですが、神戸市在住の棋士にはなかなか連絡がとれず、「黄色の公衆電話の方が繋がりやすいらしい」という情報を頼りに職員が外に走ります。六甲アイランドに住む谷川王将から電話が入り、「外部に通じる橋が半壊して閉じ込められていますが、ともかく無事です」とのこと。こうして夕方まで安否が未確認の棋士は坪内七段と西川六段だけになりましたが、関西棋士の「二人の住まい周辺は火事も発生していないからまず大丈夫だろう」との声に、確認作業は翌日に持ち越されました。後で分かったことですが、二人の家は「もう住めない」ほどの厳しい被害だったようで、無事だった家族は親戚を頼って余震の続く神戸市からは移動していました。
翌日は港湾の液化ガスが漏れだし、谷川王将は島の先端に設けられた避難所での生活となりました。さらに「両親は無事なものの須磨区の実家が全壊したらしい」との情報がもたらされ、手合課は1月20日つまり大地震から3日後の米長九段との順位戦の日程を延期する方向で連絡をとったのですが、「いいえ関西将棋会館での対局ですし、米長先生が来られるのならやります」と温情の申し出を断ったそうです。対戦相手とすれば対局当日に向けて生活のサイクルを合わせてきたんだし、新聞掲載の都合もある―こうして勝負師の心情を知るマリオでも、谷川王将の決意には胸が熱くなるものがあります。
わずかな衣装を持ち、奥さんが運転する車に乗って神戸を発ったのが対局前日の朝。実に11時間を掛けて大阪のホテルに到着したそうで、しかも翌日の順位戦に勝ち名人挑戦への希望を繋ぎ、さらにこの翌日を休養しただけで、22日には大阪から東京、宇都宮と新幹線を乗り継いで栃木県日光市のホテルに入り、王将戦第2局の対局に臨んでいます。新聞報道によると「まず、将棋を指せることがうれしい。(今回の地震で)ある意味で開き直れたと思います。勝ち負けを考える余裕がないので、より勝負に集中できると思います」と話しており、その言葉どおり急戦模様の矢倉戦で光速の寄せを披露し、79手の短手数で快勝したのは男・谷川の面目躍如と言えましょう。
ところでプロ棋士全員の無事が確認された将棋界ですが、奨励会の船越隆文2級と朝日新聞の観戦記者で詰将棋作家としても知られる宇佐美正さんが亡くなられました。
謹んでご冥福をお祈りします。
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1995年1月17日(火)、成人の日の振替休日の翌朝のことだった。
その日の私は早くから目が覚めて、フジテレビの「めざましテレビ」を見ていたのだが、6時少し前に緊急速報が入り、番組が全面的に地震の報道に切り替わった。
当初は死者2名と伝えられていたが、神戸市のビルや高速道路が崩壊している映像を見ていると、とてもそのような状況とは思えなかった。報道される被害者数は時間が経つごとに増えていく・・・ 非常に胸が痛んだ。
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大震災で亡くなった船越隆文2級は森信雄六段(当時)門下。
「聖の青春」にも書かれている通り、森信雄六段は船越2級を被害に遭った自宅の近所に住まわさなければよかったと悔み、悲嘆に暮れた。
森信雄七段は、1月17日を「一門の日」と決め、船越隆文さんを追悼する日としている。
昨日の森信雄七段のtwitterより。
森 信雄 @morinobu52
明日で震災から19年になる‥私の中ではまだ5年くらい前の出来事のように思える。毎年この時期は何故か心身の体調を崩してしまうが、今年は何とか保っている。この日を「一門の日」に決めたのは、私がいなくなっても続けてほしいからだ。船越隆文君が生きていたら遅咲きだが棋士になっていたと思う。
2014.01.16 08:09
森門下一門の日(森信雄七段のブログ)
→昆陽池、1,16 震災の日、一門会1,17 (2013年)
→震災の日、一門新年会 (2012年)
→日曜、月曜の日記 (2011年)
→震災15年、一門新年会 (2010年)
→震災14年の一日 (2009年)
→船越君の追悼 一門新年会 (2008年)
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この日のC級2組順位戦は、関西から遠征した棋士が全員勝っている。
高島弘光八段◯-●加瀬純一五段
森信雄六段◯-●小倉久史五段
久保利明四段◯-●伊藤能四段
藤原直哉五段◯-豊川孝弘四段
谷川浩司王将(当時)もそうだが、心配と不安が渦巻く中、本当に大変なことだったと思う。