三浦弘行九段の修行時代(後編)

将棋世界1992年12月号、「私の修行時代 三浦弘行四段」より。記は冬木悟さん。

相手がいないので詰将棋をやるしかなかった

―研修会のころお父さんと指した。

「いや、もういなかったですね。実は小学校卒業と同時に北本から、以前住んでいた群馬の家に引っ越したんです。群馬の家には祖母が一人で住んでおり、父は単身赴任というか一人で北本に残り、僕と母が群馬に戻りました。だから父と会う機会が少なくなってしまったのです」

―じゃあ研修会に通うのも大変だったですね。

「研修会のときは対局の前日に父のところへ泊まって、次の日に連盟に向かいました。奨励会に入ってからは新幹線で通いました。高崎を朝7時ごろの新幹線に乗れば1時間ぐらいで上野に着きます。奨励会の集合は9時なので充分間に合うのです」

―奨励会の遠距離組は、ほかにだれがいました。

「今は東京に出ていますが、僕の3期前に四段になった藤井さん(猛四段)が群馬の沼田というところで、高崎からさらに奥なんです」

―藤井四段と指したりはしなかったんですか。

「たまに(笑)。半年に1回ぐらい、思い出したころに高崎の家で指しました」

―高崎から日帰りできる時代ですからね。でも、研究会などには参加できなかったでしょう。

「ええ、学校にも行っていましたし。でも研究会としては、今はなくなってしまいましたが、西村一門が大宮将棋センターに月に1回ぐらい集まって『西村研』というのをやりました。実戦を主体としたもので、西村先生も何度か来てくださいました。さっき言ったように、西村門下にはセンター出身の人が多いですから」

―では、群馬で一人、どんな勉強をしていたのですか。

「う~ん、研修会時代や奨励会の級の低いころは、一生懸命勉強したっていう覚えがないんですよ。本当に研修会や奨励会で将棋を指すぐらいなものだったんです。家で研究とか棋譜を並べるというのはあまり・・・」

―でも、なにもやらずに奨励会を抜けられるわけがない。どこかで意識の変革が起きたはずですが。

「中学3年のとき、奨励会に入ってからです。実戦を指すのも奨励会の対局だけで2週間に1日ぐらい。これではいけないなと思い始めたんです。だからといって実戦を指すにも相手がいないのです。そう考えると詰将棋しかやることがなかった。そこで『将棋図巧』を始めたんです。それ以前から『詰将棋パラダイス』を購読していたのですが、そう考えてから長手数の難解作を、真剣に考えるようにしました」

―でも将棋連盟に来たときに棋譜をコピーすれば、家でも最新の将棋を並べられる。そういう方法もあると思いますが。

「奨励会の対局日のほかは、ほとんど行けませんからね。対局の日にコピーを取るのは時間的になかなかできません。雑誌や将棋年鑑の棋譜は並べたと思いますが、あまり記憶にありません。ただひたすら詰将棋を解いていました」

―じゃあ、図巧100題をどのくらいの期間で解いた。

「1年ちょっとぐらいです。1日に2時間は盤に駒を並べて、頭の中で解いていました。それほど難しくなかったという印象はありますよ」

―図巧が難しくない!

「自宅で詰将棋しかやらなかったわけです。だから、うまくなるというのか、上達するというのか・・・。図巧の次は『将棋無双』や『近代将棋』の詰将棋研究室、詰将棋パラダイスの手数の長いものをなるべくやりました。そんな感じで詰将棋に取り組んでから、すぐに1級まで上がれました。今でも家で詰将棋を解くのがほとんどです」

―詰将棋に偏っている。

「それはやっぱり仕方がない。どうしても田舎に住んでいましたから詰将棋を解くぐらいしか思いつかなかった。特に図巧を始めてからは、その問題に浸っていました」

―例えば角換わり腰掛銀や矢倉などの、研究が進んでいる戦型があり、組んだ局面で結論が出ていたりする。そんなことに不安はなかった。

「将棋に一番大切なのは、読みの力ではないかと思うのです。定跡や研究などはそのうち覚えればいい。20歳までは頭が一番働く時期だから、それまでに読みの力をつけたいという思いがあったんです。そのほかの事は20歳過ぎてからでもできるのではないかと」

―得意戦法は。

「奨励会に入会したてのころは振り飛車しかやりませんでした。アマチュア二、三段のころから振り飛車しか指さなかったんです。居飛車ってよく分からなかったから」

―じゃあ香落ち下手番のときはどうしました。

「相手が振りますからね、級までは居飛車(下手)穴熊に囲っていました。それが初段になったころからは、急戦を仕掛けるようになりました。そのぐらいになると、香のない欠点を突かないとなかなか勝てなくなってくるんです。相振り飛車は避けましたが、香落ちの上手はもちろん、平手のときもほとんどが振り飛車穴熊でした」

つらかった高校時代

―高校は行った。

「はい。明和県央高校という共学の私立校で、家から自転車で10分ぐらいなんです。高校は行きたくなかったのですが親に勧められて。だから将棋を負けたときなどは、本気で退学をしようと思っていました」

―学校へ行って良かったという人もいますが、三浦先生はあまり意味がないと思っていた。

「そうですね。将棋にはあんまり関係がないでしょう。僕はリーグ3期目で上がれたのですが、在学中の2期はいずれも負け越し。高校を卒業してからすぐに始まったリーグで四段になれたので、やっぱり将棋と学校は、僕にとっては合わなかったなと思います」

―先生は理解してくれましたか。

「いろいろなんです。理解してくれない先生もいましたよ。進学校だったこともあるかもしれませんが『学生なんだから学業に専念しろ』という意味のことを言われました。担任の先生も1年ごとに変わるので、そのつど説明して、説得というか理解していただきました」

―学校の成績は。

「悪くなって進級や卒業が危ないなと思ったら、勉強をやり出すんです。だから1学期ごとに良かったり悪かったり波がある感じでした」

読みの力が最優先

―高校を卒業してすぐに始まった三段リーグで昇段をつかんだわけですが、生活パターンが変わったのでしょうか。

「将棋一筋になれたのは大きかったと思います。今回の三段リーグ中に限っていえば、遅寝遅起きで朝食をとってから将棋の勉強です」

―それも詰将棋ばっかり。

「それが中心ですが将棋年鑑の棋譜を盤ではなく、頭の中で並べるということをやりました。ただ盤に並べるよりこの方が読みの力がつくのではないでしょうか。読みの力を養うには、とにかく頭を回転させなければいけないと思ったので。それに、さきほど振り飛車ばかり指していると言いましたが、それだけではなかなか勝てないと思い、前期の後半から平手の先手番は居飛車で指すようにしました。居飛車を指しておくのも経験になりますから」

―実戦を指す機会は増えた。

「北本の父の家で、月に1度か2度、今度の三段リーグが始まるに当たって窪田さんと将棋を指しました。窪田さんは十条に住んでいるからそんなに遠くないんです。あと金沢さん(孝史三段)と松本さん(佳介三段)とも北本で研究会みたいなことを始めました」

―四段昇段の報告にご両親はなんと言ってました。

「母はびっくりしていたようです。奨励会の成績は、対局ごとに教えていたので上がれる可能性があったのは知っていたと思いますが、父は自分が最初に教えたことだから、ホッとしているかもしれませんね」

―目標はどの辺においていますか。

「名人です」

―名人になるためには、今後どのように精進していきますか。

「精神面をまず鍛えたい。精神が弱いという意味ではなく、米長先生みたいに大一番でも自由奔放に指し回す大胆さを身につけたいと思っています。技術的には詰将棋をもっとやって、序盤の研究を読みの力で上回ってしまう。そのぐらいの力がほしいですね。まだまだ自分は強くなれるはず。その力をつけられるように頑張ります」

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(小学1年生の頃)

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三浦弘行九段と藤井猛九段の奨励会時代のVSについては、藤井猛九段が思い出話を書いている。

藤井猛少年と三浦弘行少年の「山賊ラーメン」「海賊ラーメン」

「藤井四段と指したりはしなかったんですか」という質問に、三浦四段(当時)が「たまに(笑)」と答えているが、(笑)に何か面白い意味が含まれているのかもしれない。

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三浦弘行奨励会員にとって、藤井猛奨励会員に続くVSの相手が窪田義行三段(当時)。

北本は大宮から先にあるので東京から遠いイメージがあるけれども、十条から北本まで電車で約40分。たしかに、そんなに遠いというわけではない。

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将棋年鑑の棋譜を盤ではなく頭の中に並べていた三浦四段。

この2年ほど前に、淡路仁茂八段(当時)、宮田利男六段(当時)、武者野勝巳五段(当時)が、「棋譜データベースの会」を立ち上げ、棋士や記者向けに棋譜検索ソフトと棋譜データを提供しはじめている。(1991年7月の時点で20数名の会員)

三浦四段も、プロになって間もなくこの会に入会しており、東京から離れた所にいても、最新の棋譜を容易に入手できるようになった。

三浦流の研究は、検索した棋譜を画面で追うのではなく、棋譜を印刷して盤に並べて、次の一手を自分なりに納得のいくまで考える方式。

中学・高校生時代の詰将棋もそうだが、非常に骨太で逞しい雰囲気がある。

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中原誠十六世名人も、高校を卒業した年の秋に、それまで3年間留まっていた三段リーグを抜け出し四段になっている。

将棋と学業の両立をしなければならない時期から将棋一本の生活になる変わり目に、今まで蓄積してきた大きなエネルギーが自然と放出されるものなのかもしれない。

そういう意味では、中村太地六段も、大学院を卒業してから大ブレイクが始まっている。