将棋世界1991年12月号、「ボクが初段になるまで 羽生善治棋王の巻」より。
世間は広い
―将棋道場には行っていましたか。
「小学校2年生の夏休みに、小学生の大会に出たんです。その会場になっていたのが、後に行くようになった八王子将棋クラブでした」
―2年生で出場するとは、すごいですね。周りは上級生ばかりじゃなかったですか。
「ええ、でもその頃はもう友達には負けることがなくなっていたので、天狗というほどではないにしても、自分ではかなりいい線いくのではないかと思ってもいました」
―戦績の方はどうでしたか。
「それが、何かの手違いで1回戦は中学生の人とやることになって、その将棋は勝ったのですが、その後2番、小学生の人とやってどちらも負かされました」
―中学生とやって勝ったというのはさすがでしたね。
「でも、その後2連敗ですから、やっぱり相当弱かったんです」
―自信を持って出場したのに、負かされてしまってショックはありませんでしたか。
「ショックはなかったですけど、ウーン、世間は広いなと思いました(笑)。それで、もっと強くなりたいと思って、道場に通ってみようかなと・・・」
15級からスタート
―道場では何級から始めましたか。
「初めて道場に行ったとき、道場の人に指してもらって、終わったら『15級で指してみて下さい』と言われました」
―道場には毎日ですか。
「いえ、週に1回、家族で町に買い物に出かけるんですが、その時みんなが買い物をしている間にボクだけ将棋道場に行って将棋を指しているというふうでしたから、土曜日か日曜日に週1ペースでした」
―番数はどれくらいこなしましたか。
「1回に指す時間は3、4時間とそんなに長くありませんでしたが、かなり早指しでしたから、相当番数は指したと思います」
―それではすぐに昇級していったでしょう。
「いえ。初めて1ヵ月くらいは、全然勝てませんでした。二枚落ちでも六枚落ちでも・・・」
―それは大変でしたね。よく、めげませんでしたね。
「好きでやってましたからね。初めて1つ勝ったら10級にしてくれて、認定状をもらいました。あの時はとても嬉しくて今でもよく覚えています」
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将棋世界1993年5月号、永田守弘さんのヒューマンルポルタージュ「八木下征男 子供たちと共に」より。
『巨人の星』のカミナリ親父、星一徹のような熱血漢ではないか、という先入観があった。まさか劇画のように、怒ると眼から火花を発したりはしないだろうが、相当に恐ろしい人ではあるだろう。なにしろ羽生竜王を子供の頃から鍛え上げた道場主と聞いている。あのギロリとした”ハブにらみ”もきっとこの人物かの感化に違いない。そう思ったから、いささかならず怯えながら取材に出かけた。
ところが八木下征男さんにお会いしてみると、読み筋はまったく外れていた。見るからに優しそうな、穏やかな印象である。顔肌はむしろ色白で、頬のあたりは、少年のように、なめらかな桃色をしている。眼には微笑のかがやきが絶えない。ホッとした私は、にわかに口舌が軽くなって、あれこれと質問をぶつけはじめた。客の去った道場には、40面をこえる将棋盤だけが、ひっそりと並んでいる。
八木下さんを筆写するには、やはり羽生少年との邂逅を出だしとするのがいいだろう。昭和53年8月2日、八王子将棋クラブで「夏休み小中学生将棋大会」が開催された日である。八木下さんが将棋道場を開いた翌年のことだった。
ポロシャツと半ズボンの小柄な少年が、おずおずとドアを押して、会場に入ってきた。という言い方は、正確ではないらしい。少年についてきた母親が、後ろに立ってドアを開け、少年の背中を押して入らせたと言ったほうがいいようだ。少年は、いうまでもなく羽生善治である。タウン誌『ショッパー』に出ていた将棋大会の予告を見た母親に連れられて来たという。
少年は、広島カープの真っ赤な野球帽をかぶっていた。カープのファンだったわけではない。母親が、人混みの中でも見失わないように、目立つ色の帽子をかぶらせていたにすぎない。
八王子・元木小学校の2年生だった羽生少年は、隣家の同級生・高木くんに教わって、将棋のルールは知っていた。といっても、超初心者で、この日は3戦して2敗で失格してしまった。八木下さんは几帳面な人だから、そういう記録も保存してある。
羽生少年が同じく母親のハツさんに連れられて2回目に道場に来たのは、約3ヵ月後の10月28日だった。このときには八木下さんに6枚落ちで教わって負けている。それもそのはずで、4級の小学生に6枚落ちでいい勝負ぐらいの実力なのだ。道場の級位は一番下で8級までしかなかったが、席主の八木下さんは羽生少年のために、そのときから15級までつくり、勝つと1級ずつ上げていくことにした。4級ぐらいの相手がいないときは、もっと上級者に玉と金2枚ぐらいの手合いにして、とにかく下級者でも勝てるように組み合わせた。
「勝てばうれしいでしょう。そうやって級位が上がっていくことで将棋に励みができますから」と、初心者にやさしい心遣いをする八木下さんの人柄が、こんなところにも表れている。手のすいた時間があると、羽生少年の相手もしてくれた。
当時の八木下さんのことを羽生竜王に聞くと、「先生という感じはなく、年齢のはなれたお兄さんのようでした」と言う。この道場には子供が多いことも、引っ込み思案だった羽生少年が気やすく通える雰囲気を感じさせた。
善治くんは土曜日ごとに道場に来るようになった。自宅はバスで30分ほど離れた場所にあるので、平日は通えないが、土曜日は家族が市街へ買い物に来るついでに善治くんを道場に置いて行き、帰りに連れて帰るのだった。
「いつもお母さんが連れていらっしゃいましたが、将棋は指せないということでしたね。お父さんも指さないんじゃないですか。外資系のエンジニアと聞いたような気がしますけど・・・」
八木下さんは、しかし、羽生少年の才能にかなり早くから気づきはじめていた。6枚落ちの定跡を教えると、その次にはちゃんとその通りに指した。将棋の雑誌を隅々まで読んできてその話をする。テレビ将棋を見ては、翌週に棋士の指し手をすらすらと口頭でたどって、八木下さんに質問したりした。
小学2年生の3学期のは、八木下さんはもう2枚落ちでは羽生少年に勝てなくなった。そのあと、上手の子供をつぎつぎに追い越して、級位が上がっていった。
「でも、勝っても負けても、淡々としていましたね。負けて泣く子は強くなるといいますが、子供をたくさん見てきて、あれは違うと思いますよ。闘志は胸のうちに秘めているほうがいい」
八木下さんは”ハブにらみ”についても、異論をつけ加える。
「当時からよくやっていましたが、あれは睨むんじゃないですよ。大人と指していたりして、相手の顔色が気になるものだから、ちらっと見るだけなんです」
(つづく)
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羽生善治三冠にとって、八木下征男さんとの出会い、八王子将棋クラブとの出会いは非常に大きな意味を持つことになる。
一番良いタイミングでの最も良い出会い。
将棋をもっともっと好きになる、モチベーションが更に上がるような環境があって、羽生少年がそこに溶け込んだ形だ。
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高校時代の現代国語の授業でのこと。
先生が、「この世の中は何次元だろう」という問いかけをした。
縦×横×高さの3次元と考えるのが普通だし、数人の生徒からも「3次元です」と声があがった。
すると、先生は「そうか、そういう考え方もあるのか。僕は”場所”と”時間”の2次元だと思っている」と言う。
(それなら、縦×横×高さ×時間の4次元ということかな、いろいろと解釈はあるものだ)と私は軽く受け流し、ところで今週のジャイアント馬場対ジャック・ブリスコのNWA選手権試合はどちらが勝つのだろう、などとと頭の中で別のことを考え始めた記憶がある。
ところが、社会人になっていろいろな経験をしたりすると、この時の先生の言葉「世の中は場所と時間の2次元」ということを実感することが多くなってくることに気がつくようになる。
一番そう思うのは、「人との出会い」。
偶然、必然は別としても、出会う場所と時間が一致する瞬間がなければ、その人とは知り合うことさえできない。
羽生少年が八王子に住んでいなければ八王子将棋クラブに行くことはなかったろうし、1970年生まれの羽生三冠が仮に1960年生まれだったなら、八王子将棋クラブはまだできていない時なのでやはり八王子将棋クラブとは縁がなかっただろう。
男女の出会いにも似たようなところがある。
場所軸と時間軸の交差の積み重ねが人と人と出会いと言えるだろう。
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「思い出」も、「世の中は場所と時間の2次元」ということを強く思わせてくれる。
例えば、思い出の深い場所へ何年か振りで行ったとする。
それは、卒業した母校であったり、今では違う会社が入っている10年以上前に通ったオフィスビルであったり、店主が亡くなって違う店になっている酒場でもいい。
そのような思い出の場所へ行って感じることは、「思い出は自分の心の中に常駐しているものであって、現在のこの場所には何も残っていない」ということ。
建物は同じでも、建物の中にいる人達が違う。先輩の◯◯さんや後輩の△△がいない建物。馴染みだったママのいない店名の変わった酒場。
その場所へ行って新たな思い出や感慨に浸れるかというと、そういうことはほとんどなく、思い出は自分の心の中にしか残っていないこと、自分の魂が宿っている場所は時間軸が違う同じ場所であること、を痛感させられる。
そういった意味では、「世の中は縦×横×高さの3次元」と考えるよりも「世の中は場所×時間の2次元」の方が、今の私には馴染みやすい感覚だ。