「はぶ先生、あく手してください。」

将棋世界1993年7月号、読者が作る声のページ「レタープラザ」より。

一回きりの大チャンス

『五月八日 土

 きょう、千だがやのしょうぎかいかんに行きました。

 かえりに、つよくてタイトルを三つもっている、プロきしの、はぶよしはる先生にあいました。「さようなら。」と言ってかえりかけたけど、あく手したいとおもったので、大いそぎではしって行って、「はぶ先生、あく手してください。」とおねがいしました。

 はぶ先生の手は、ポカポカあたたかくて、とってもいい気もちでした。わたしはそのとき、むねがどきどきしていたけれど、とてもうれしかったです。あく手してもらうと、手をはなしたくないような気がしました。とってもしあわせでうれしかったです。

 きょうは一回きりの大チャンスだったとおもいました。できたらこんどは、ゆっくりお話してみたいとおもいます。』

 小二の娘 香菜子(8級)の日記です。これからの長い人生でも、一回きりの大チャンスをうまくとらえながら幸せに生きて行ってほしいものです。

 末筆ながら、娘のあつかましいお願いに笑顔で応じて下さった羽生竜王に心より感謝いたしますとともに、ますますのご活躍をお祈り申し上げます。

(埼玉県 坂東◯◯)

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投稿された方は、香菜子さんのお母様。

そうすると、この小学2年生の子の名前は、坂東香菜子ちゃん。

この坂東香菜子ちゃんは、現在の坂東香菜子女流2級である可能性が高いと思い、調べてみた。

坂東香菜子女流2級が生まれたのは1986年3月31日。1993年5月の段階では小学2年生。

幼稚園の時にお父さんから将棋のルールを教わった坂東香菜子女流2級は、小学2年生の頃から道場に通いはじめ、3年生の秋からは後に師匠となる飯野健二七段の教室にへ行くようになる。

坂東香菜子女流2級がこの頃通っていたのは日本女子大学附属豊明小学校。

これらのことを総合すると、この日記を書いた坂東香菜子ちゃんは、小学生の頃の坂東香菜子女流2級と見てまず間違いない。

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「はぶ先生の手は、ポカポカあたたかくて、とってもいい気もちでした。わたしはそのとき、むねがどきどきしていたけれど、とてもうれしかったです。あく手してもらうと、手をはなしたくないような気がしました。とってもしあわせでうれしかったです」

この感想は、現代の女性将棋ファンがtwitterで書いているような、ファンのプロ棋士と握手したときに抱く感情と全く同じだ。

羽生三冠と握手して感じる幸せ感は、子供も大人も変わらない普遍的なものであることがわかる。

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坂東香菜子女流2級は、メロドラマの美しいヒロインの雰囲気。

そのような小学2年生の女の子が、「さようなら」と言って立ち去って、少しすると走って戻ってきて、「はぶ先生、あく手してください」。

書いているだけでドキドキしてきそうなほど、意地らしい小学生だ。

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女性が立ち去った後、少ししてから女性が突然振り返り、走ってこちらへ戻ってくる、というと思い出すのが、状況的には全く異なるが、1996年にフジテレビ系で放映されていたドラマ「Age,35 恋しくて」のラストシーン。

妻の朱美(田中美佐子)と円満に離婚し、二人の子供をアメリカ留学に送り出したばかりの島田英志(中井貴一)。

成田空港で一人になった英志が「俺の人生に、何も後悔はしていない…」。

妻との離婚の原因は、8年前の英志の照井ミサ(瀬戸朝香)との不倫に端を発するものだった。

同じ会社の秘書課に勤務する照井ミサは、結婚式の当日に事故で亡くなった恋人と英志が瓜二つであったことから英志に接近した。しかし次第に英志に惹かれていき、かつての恋人を超越して英志を愛し、二人の子供を妊娠した。

英志は幸せな家庭を捨てミサと一緒になることを決意するが、自分のために家庭を捨てようとする英志の気持ちが辛くなり、ミサは会社を辞め、「別の人と結婚が決まった」と言い、英志の前から姿を消してしまう。

1年後、大阪出張の折にようやくミサの居場所がわかった英志はミサのアパートを訪ねるが、ミサは結婚して幸せだから会いたくないと門前払い。英志は仕方なく、生まれた子のために買った靴を置いて帰る。家の中で号泣するミサ・・・

一方、定時に帰宅せず不審な行動が多い英志に疑いを抱いていた妻の朱美は、大学時代の同級生の成瀬シン(椎名桔平)と再会。シンへの想いが深まっていくが、家庭を壊したくないということで自分の気持ちを偽っていたものの、英志の不倫を知ってしまったのち、自分の気持ちを偽れなくなってしまいシンと不倫。

このタイミングが英志がミサを諦めた直後のことだった。

お互いの不倫を目の当たりにしてほとんど離婚の勢いだったが、子供たちが参加する合唱コンクールの日。

夫婦の不穏で冷えきった様子をここ数週間見ていた二人の子は、歌っている最中に泣いていた。

それを見た英志は朱美に、子供たちのためにやり直そうと言う。

合唱コンクールが終わったその足で、ヨーロッパに移住するシンと一緒に旅立とうとしていた朱美だったが、子供たちを見て、泣く泣く諦める。

お互い醒めた気持ちで夫婦を続けて7年が経った。

子供達がアメリカへ留学し独立するタイミングで、英志は朱美にジンと結婚するよう提案する。英志はシンに段取りをつけていた。

そして、円満に離婚。

アメリカへ留学する二人の子供を成田空港で見送る英志、そして朱美とシン。

それぞれが新しい方向に向かって、英志が空港で一人残されたところからラストシーンは始まる。

英志にぶつかってきた男の子がいた。

ふと見上げるとミサが。7~8年振りの再会。

その男の子が自分の子であると知る英志。

ミサは生命保険の外交で地区ナンバーワンになったインセンティブ家族旅行でオーストラリアへ行くという。

ミサが見せてくれた搭乗券には「misa terui 」の名前が。

(ここからシャ乱Qの「こんなにあなたを愛しているのに」が挿入される)

「照井って・・・結婚したんだろう?」と聞く英志。

「…あれはウソ、まあいいじゃない。不倫してた女がいつまでも一人だなんて思ったら寝覚めが悪いじゃない」とミサ。

その後のふとした話の流れで英志が離婚したことを聞かされ動揺するミサ。

そのような時に搭乗時刻が迫り、

ミサ「…じゃあ、私たち、もう行くから」

英志「じゃあ………元気でな」

搭乗口に向かうミサ。

ミサのリュックに英志が7年前に置いてきた赤ちゃん用の靴がぶら下がっているのを見て、動揺する英志。

(ここでシャ乱Q「いいわけ」が挿入)

立ち止まるミサ。

左手で、千切った搭乗券を投げ捨てるミサ。

振り返り、英志のもとへ走るミサ・・・

1990年代のドラマでも屈指のシーン。

涙なしで見ることはできない。