上座を譲られたのが祟った対局

とにかく面白い。

将棋世界1993年9月号、前田祐司七段(当時)の「待ったが許されるならば・・・」より。

 昭和49年に昇段して以来、間もなく棋士生活20年になります。そろそろくたびれてきたのか、ここ数年は苦戦の連続。年間にふたけた勝つのも容易ではなくなり、順位戦では常に降級の危険にさらされています。

 なんだか将棋を指しているとつらい事ばかりのようですが、”待った”をして別の道に進めば良かった、と思ったことはありません。どれほど危ない目に遭っても、順位戦が終われば次の期が待ち遠しいのです。

 しかも始まる前だけは「よし、今期はひとつ」とか、専門誌紙の昇級予想のページを見て「オレの名前がないじゃないか」とか、心の中で独りごちているのですからどうしようもありません。もっとも3戦も消化すれば、分不相応な考えを恥じ、記者の方の確かな目を証明する結果になるのですが・・・。

 トップクラスは「97パーセントまでは技術で、残りの3パーセントは運」と言います。ところが私の場合は「50パーセントが技術で、50パーセントが運任せ」の将棋だと自己分析しています。その日の運によって将棋の内容に出来、不出来の差が非常に激しい。

 この「運」というものは自分では判断できませんから、当然、ほかのプロよりハラハラ、ドキドキの場面が多くなります。一局の行方を左右する大事な局面で、自信半分、不安半分。そこで運を天に任せ、決断の一手を打ち下ろす。

 この瞬間こそ、しびれるのです。棋士冥利に尽きるのです。ああ棋士になって良かったと実感できるのです。もう一度生まれ変わっても、やっぱり棋士を目指していることでしょう。

 オット、手前みそばかりではいけませんね。そろそろ待ったをしなければ。

 私には昭和61年度に第36回NHK杯戦で優勝するという、唯一輝ける棋歴があります。賞金もいただき、そのころはなぜか運がついて勝ち星が集まり収入もウナギのぼり。しかし、良い事ばかりそう長く続きません。それまでの悪運を使い果たし、ついに報いを受けることになるのです。

 それは昭和63年度の第47期順位戦の最終局でのこと。B級1組にいた私は高橋道雄七段(段位など、いずれも当時です)との対戦でした。高橋さんは勝てばA級に昇級の目があり、私は負ければB級2組に陥落の目があるという、互いに大きな意味を持つ一局。まさに明暗を分ける勝負です。

 高橋さんの競争相手は石田和雄八段で、石田さんは勝浦修九段に勝てば自力昇級、負けても私が高橋さんを負かせば順位の差で上がれるという状況でした。

 当日の朝、礼儀正しく謙虚な高橋さんは、私に上座を勧めてくれました。高橋さんは王位のタイトルを3期、十段のタイトルを1期の素晴らしい実績を持っていますので、通常は高橋さんが上座に就くものでしょう。しかし、この時、無理やりにでも下座に就くのだったと、対局中に後悔しようとは思いもよりませんでした。

 自力とはいえ石田さんは気になるのでしょう。別室から私と高橋さんの将棋をよくのぞきにやってきます。すると必然、上座にいる私と視線が合ってしまいます。

 普段から、石田・青野(照市八段)の両先輩には大変お世話になっており、私はいつもご馳走になっています。まして本局に勝てば一週間に及ぶ大宴会は必定でしょう。生ビール、ヒレ酒、ステーキ・・・。無芸大食の私の頭の中はそれらで占められました。石田さんも「頑張れ」と目で激励してくれているようで、なんだか力がわいてくるような気さえしたのです。

 さて夜戦に入り、私は形勢不明と思っていました。ところが石田さんは観戦に来るたびに眉根が寄り、顔はだんだん険しさを増し曇っていくのです。

 その表情から技術50パーセントの私は「もしかしたら悪いのではないか」と疑心暗鬼に陥りました。そして、局面が進むにつれ、はっきりと苦戦を自覚しました。その時です。石田さんが再びやってきました。そして盤をのぞき込むと、今度はとうとう「駄目だ」と言わんばかりに、頭を左右に振られたのです。

 形勢不明だと思っていれば頑張れるのですが、苦戦を自覚した直後であり、石田さんの顔には「(前田が)不利だ、悪い、負けだ」と書いてあるのです。私は粘る気力を失い、ズルズルと土俵を割ってしまいました。

 結局、石田さん自身も負けて、高橋さんが昇級、私は陥落。ついに前田新六段の誕生となりました。

 ああっ!

 待ったをします。待ったです。

 将棋の神様、私は下座に座ります。そして石田さんの顔や視線が見えない位置でもう一度、この対局をやらせてくださいませんか。

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石田和雄九段の愛されるキャラクター。

石田和雄八段(当時)の表情や様子が目に浮かんで、思わず笑ってしまう。

昨年のNHK杯戦、中田宏樹八段-佐々木勇気四段戦の解説を石田和雄九段がした時の、弟子の佐々木四段が劣勢になるにつれて変化していく石田九段の顔の表情も思い出される。

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将棋世界の先月号から前田祐司八段の連載エッセイ「言い訳をしたい棋譜」が始まっている。

今日の記事のエッセイを読んでも将棋世界で連載開始されたエッセイを読んでもわかる通り、前田祐司八段の文章は面白い。

私にとっては、将棋世界に楽しみなコーナーが一つ増えたことになる。

これからの前田八段の連載が楽しみだ。

      

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