タモリの寿司将棋

将棋世界1992年11月号、演出家・編集者の高平哲郎さんのエッセイ「寿司将棋」より。

 15年ほど前、ちょうどタモリがテレビに出始めたころだ。ぼくらは赤塚不二夫さん、滝大作さんを中心に毎晩のように新宿の寿司屋の四畳半で飲んだくれていた。タモリや所ジョージといった今をときめく連中も週に一度仕事があるかないかくらいの忙しさだったので、どこからどう湧いて来たのだろうというような連中に混じって、毎晩芸のひとつや30位は披露していたはずである。最低で5人、多い時では10数人がこの四畳半を占領していたのである。酒は白波の番茶割り。肴はブッカキ氷の上にキャベツを千切ったものだけ。このキャベツに塩と胡椒と味の素を混ぜた赤塚先生特製の粉末香辛料をつけて食べるのだ。赤塚先生はマヨネーズ少年なのでマヨネーズも欠かせなかった。

 この集まりに来た新顔は、寿司屋なのに刺身も寿司も出ない事を不審がって、たいてい「おなかが空いたんで寿司でも取りましょうか?」などと言う。これは赤塚先生の前では禁句である。「馬鹿野郎、こんな店のまずい寿司なんか食うと腹をこわすぞ。腹が減ってるんだったら、その辺行ってラーメンでも食べてくりゃいいんだよ」と新顔が先生に言われると、われわれ古顔は計り知れない優越感に浸れるわけである。

 時たま、いいネタが入ったりしたので思わず店がサービスなんて殊勝な気を起こしたせいか、会社の伝票で落とせる役職にいる新顔の編集者が好意で奢ってくれたのか、5人前位の桶に入った寿司がテーブルに載ることがあった。こうした場合、新顔はすぐ手を出すが古顔は赤塚先生の動向を見守る。「おまえらよくこんな寿司が食えるな」のお言葉で、ぼくら古顔はこの寿司を食い物以外で使用する方法を考える。そこで生まれたのが寿司将棋である。

 こういうネタは自然発生的に生まれ、それがたくさんの人間の知恵と叡智で立派な作品として後世に残っていくというケースが多い。最初は山下洋輔さんとタモリだったような気がする。テーブルに寿司を何個か並べ、向かい合って二人の男がしきりに考えている。「う~ん・・・ああしてああすると・・・ああ来るか・・・とするとああしてこおして・・・よし!」というなり、タモリは、向かいに座った山下さんの鮪の上に自分のイカを載せる。山下さんは「うん!?やりますなぁ・・・そう来られたらたまりませんよ・・・じゃあこうしましょう」というなり、自分の前のタコをイカの載った鮪に直角に並べる。「なんと!?そうきましたかぁ」と、タモリは深い溜め息をついて5分ほど考える。

 この辺りになると、ぼくや赤塚先生も参加したくなる。「それ面白い、初めからやろうよ」と先生。早速、二人のテーブルの前に小さめのテーブルを並べ、そこに松金よね子が座る。山下さんにカッパを5つ持たしてそれを5枚の歩を振るようにテーブルの上で振ってもらう。「振り寿司の結果、先手、山下八段。持ち時間は各自1時間。それ以降は一手30秒以内でお願いします」よ、よね子の読み上げが始まる。「先手山下八段7六カッパ。後手タモリ名人3四カッパ。先手山下八段3八鮪。後手タモリ名人5二こはだ」・・・。勢いよく10数手が進み山下八段が腕を組んで考え出す。よね子の秒読みが始まる。「27、28、29・・・山下八段一度目の考慮時間に入ります」

 そこで赤塚先生とぼくの出番になる。二人は壁に張ってあるポスターを挟んで立っている。「う~ん、先生、まぁここまでは順当ってところでしょうかねぇ。タモリ名人の、この3三ガリの切れ味が冴えていますね」「そうですねぇ、このまま行くと、不思議に赤貝が重い」「この後、棋史に残る壮絶な一手が4五ガリ、タコの上に載るですね」「まぁそつのない手ですね」「でも山下八段は、そうこられたら5三こはだ切りという奇襲に出るんじゃないでしょうか」・・・。

 ポスターのあちこちにご飯粒を貼って、結構こっちの二人も楽しんでいる。こうした何の目的もないイベントが延々1時間は続く。結論はないが、そろそろみんなが飽きてきたころを見計らって、タモリが「王手!」。山下さんが「何!」と驚いて「それには気づきませんでした。私の負けですな」と、投了する。それから本格的に飲み始める。各人が、あそこはこうした方が面白かっただの、あそこの誰々の科白はウケただの反省会になる。

 そこで今度は寿司麻雀というのはどうかという話になり、何も知らない板前さんにさらに40個ほど寿司を握らせる。寿司が出来上がったころには、若い劇団員が二人増えている。山下さんが抜けて、赤塚先生、ぼく、若手二人の四人がテーブルを囲み、二段に積んだ寿司を前に、例によって、カッパを二つ振ってゲームが始まる。タモリは大橋巨泉に扮して解説に回っている。だが、この寿司麻雀は失敗に終わった。ぼくが捨てた鮑を寿司など1年ぶりの若手がポンをして3個まとめて自分の口に放り込んでしまったからだ。この若手二人が、駒もパイも全て片づけたところでその夜は解散となった。

—–

1977年頃の話。

新宿二丁目にあった「ひとみ寿司」という寿司屋が舞台。

仕事がヒマだと言っても、タモリさんが日本テレビ系「金曜10時!うわさのチャンネル!!」に出始めていた頃。

—–

タモリさんが司会を務めるフジテレビ系「笑っていいとも!」が、3月31日に31年半の歴史に幕を下ろす。

また、今日のテレホンショッキングには安倍晋三首相が登場する。

—–

「笑っていいとも!」が始まったのが1982年10月4日のこと。

フジテレビは1980年頃まで、アニメ・子供向け番組などは注目されたものの、全体的に視聴率は良くなく、不振な状態が続いていた。

この状況を一気に打破したのが、鹿内信隆フジテレビ会長(当時)の長男だった鹿内春雄氏。1980年6月に代表取締役副社長に就任すると、数々の改革を断行した。

それまでの「母と子のフジテレビ」というキャッチフレーズを改め、「楽しくなければテレビじゃない」を打ち出し、意識改革をはかった。

また、経営合理化などのために別会社化・出向させられていた制作部門をフジテレビ本体に戻し制作部門の社員の士気を高めるとともに、編成と制作を融合した機構改革を行い、編成主導の番組制作体制を作った。

その頃に始まったのが、「笑っていいとも!」、「オレたちひょうきん族」、「北の国から」などの数々の番組。

実力があれば重用する人事もあわせて行い、その結果、1982年に「年間視聴率三冠王」(ゴールデン・プライム・全日でトップ)を獲得。その後「三冠王」は1993年まで12年連続で達成することになる。

1984年には年間売上高でも民放でトップとなり、フジテレビは日本最大の民放テレビ局へと成長していった。

当初は「父と子のフジテレビ」、あるいは「父子テレビ」と呼ぶ向きもあったが、鹿内春雄副社長の改革は、非常に実効のある改革だった。

残念なことに、鹿内春雄会長・フジサンケイグループ議長は1988年に42歳の若さで亡くなっている。

—–

最近のフジテレビは視聴率が不振な状態が続いている。

また、復活をしてほしいと願っている。