大山康晴十五世名人が升田幸三実力制第四代名人への追悼文で取り上げた一局

近代将棋1991年6月号(升田幸三実力制第四代名人追悼号)、大山康晴十五世名人の「抜群の大局観 ―升田さんを想う」より。

 升田さんとは167局も戦っているわけでして、高野山の決戦とか既に書かれているものが多いのですが、いま、ふと思い出したのが、二人が戦った一番最初の名人戦です。昭和28年、私が名人、挑戦者が升田さんでした。ここから、名人戦に於ける升田さんと私の戦いが始まりました。

 ”攻めの升田、受けの大山”と一般に言われていますが、升田さんは受けがむしろ強かったというか、本人も「じっと受けに回ったときがいいんだがなあ、一般には攻めになってるけどなあ」と言ってましたが、受けに回り、危ないときにこらえ、受けつぶすというような形になったときに読みの深さ、先見性、抜群の大局観というものを私は感じたのです。

 1図は第12期名人戦第3局(1953年5月11、12日、別府)の序盤戦で、升田さんが▲3五歩と突いたところ。

大山升田1953年名人戦第3局1

 

1図以下の指し手

△同歩▲2五飛△3三銀▲2六飛(2図)

大山升田1953年名人戦第3局2 

 升田さんが私の△3三銀に▲2六飛と引いた手がなかなか出来ないんじゃないか。浮いた以上は何が何でも取ってしまえ、というのが普通ですよ。一歩損してももとへ帰る、この辛抱。升田さんらしいと私は感心しました。

 ”攻める升田”というと、がむしゃらに攻めるように思うけれども、こういう我慢が、真の”強さ”と思います。

 3図は中盤戦。升田さんが▲5五歩と打ったところです。

大山升田1953年名人戦第3局3 

 これも打てない歩ですよ。一歩損しているなかで、なお▲5五歩と打って損をするんですから。

 4図はさらに32手すすんで、▲5七銀。

大山升田1953年名人戦第3局4 

 以下、△3七角成▲3五飛△2六馬▲3九飛△3六歩▲2九飛△3五馬▲2六銀△4四馬▲3五角(5図)とすすんでいますが、攻めに使いたい角と銀二枚をじっと守りに使っていますね。升田さんとしては全体の駒のつかいかたと流れをみているわけで、こういうところに抜群の大局観を感じます。

 どの一局もなつかしい思い出です。

 升田さんのご冥福を心から祈ります。

大山升田1953年名人戦第3局5 

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追悼文なので指し手の細かい解説は行われていない。

2図の、△3三銀に対して▲2六飛と引いたのが、升田八段(当時)の狙いだったのか、あるいは見落としだったのか、わからないところだが、大山十五世名人の文章の流れからすると、予定変更だったのかもしれない。

4図の▲5七銀は、持ち駒の銀を打ったもの。

私の棋力では、この将棋の素晴らしさや升田八段の大局観、構想を読み取ることはできないが、逆にわからないからこそ、奥の深い凄さが感じられるとも言える。

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升田幸三実力制第四代名人は内弟子時代、兄弟子の大野源一五段(当時)に徹底的に鍛えられた。

後に”攻める振り飛車”で振り飛車名人と称されるようになる大野源一五段の強力な攻めに対抗するために、升田少年は強靭な受けを身に付けざるをえなかった。

兄弟子の「攻め」が身に付いたのではなく、それを通り越して「受け」になったわけで、いかに凄い練習将棋だったかがわかる。

攻めの強い兄弟子と指して受けを身に付けたのが升田実力制第四代名人とすると、受けの強い兄弟子と指して、やはり受けを身に付けたのが大山十五世名人。

どんなに攻めても兄弟子の升田少年の受けの前に敗れるばかりの大山少年。

それで大山少年は「将棋は受け」ということに開眼したと言う。

攻め→受け→受けの系譜。

攻めが強い兄弟子と指しても、受けが強い兄弟子と指しても、弟弟子は「受け」を身に付ける構図だ。

大野・升田・大山兄弟弟子(前編)

大野・升田・大山兄弟弟子(後編)