大野・升田・大山兄弟弟子(後編)

今日は、升田流の「悔しがらせて育てる」。

基本的なコンセプトは大野流と同じだが、表現方法が大野流と升田流では異なる。

大山康晴十五世名人の入門の日、升田幸三実力制第四代名人にどのように鍛えられたのか。

近代将棋1950年創刊号、樋口金信「升田・大山兄弟弟子」より。

樋口金信氏は、大阪毎日の将棋担当記者。関西の棋士を公私に渡り可愛がっていた。

戯曲を思わせるような名調子の文章。

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「こいつ(大山少年)は将来、きっと名人になる器があるとにらんだ。叱っても撲っても大成させなければならぬと思った。この点、同じ弟弟子でも、山中六段は人物も申し分なく立派だが、こういっては失礼だが、名人になる天分、閃きがないので、将棋そのものについてはちっとも言葉を差し挟まなかった」

升田幸三八段が、今をときめく関西の大御所、木見金治郎一門の兄弟弟子、特に大山八段に遠く十数年以前から名人候補たることを着眼もし、養成していたのである。

(中略)

升田八段が十八歳、二段の春、十三歳の大山少年が木見八段の内弟子となった。

「大山少年の壮行を祝す」「名人になって帰郷せよ」等々と大旗をもって見送られた西阿知駅頭(倉敷)。父君とたった二人きりで大阪行きの列車に収まった時には大山少年は独りでに涙が出た。

(中略)

角田二段は既に去っていて木見八段、ふさ子夫人、大野五段、升田二段と女中の春さんに新参の大山少年が加わった一家六人の老松町の木見教室である。「一局指してやろう」

木見亭に一泊したのみで、今しがた大阪駅から岡山へ帰った父君。木見先生をはじめ大野、升田の兄弟子たちに、くれぐれも年少の大山の行く末を宜しく頼んで立ち去ったことはいうまでもない。まだ、紺絣も真新しい強度の眼鏡をかけた大山少年は、階上の道場で、長身の升田二段に言葉かけられ初指導を願った。

「岡山に天才少年現る」---で毎日新聞紙上で、僅か二ヶ月以前、棋力初段以上と紹介された大山少年である。

手合割は二枚落、ガサッと大駒二枚を駒箱にしまいこんで、「ヤア」と軽く一瞥した升田二段は「六二銀」と定跡通りの手を指した。

大山少年は、家元秘伝、銀多伝によって必勝を期した。いかに専門家が強いといっても大駒落ならおそらく天下無敵との自負心さえ持っていた。

それがどうだ。必至をかけて勝ちと見たのが、攻防両様の角行打ちから惜しい一手違いの逆転を招き升田二段の辛勝となってから、何と立て続けに三番を惨敗した。決してこれが真の実力ではない大山少年だが、あまりの不出来というか唖然たるうちにも定跡を超越した恐ろしい玄人の棋力に圧倒されてしまったのだ。

「もう、これでいいだろう。三局の棋譜、覚えている、ウン、清書しておけよ」

升田二段はこういって、トントンと階下へ立ち去ってしまった。仮令、今一局、二枚落で指してもらっても勝ち切るとは思えない。惨めな自分の棋力に不安を生じたものの、兄弟子升田の最初の言いつけだけに、すぐさま、新しい便箋に丁寧な文字で一局の棋譜を記した。そして盤面に並べ直して誤りのないことを確かめた。

やがて、再び姿を見せた升田二段は「ウン、これでよい」とうなずきながら

「君、封筒を持っているか」

「ハイ、持っております」

入門第一日の郷里への便りを書くつもりで、カバンに入れていた封筒を差し出した大山少年である。

「君、この棋譜をこれに入れて、岡山へ帰りたまえ」

「エッー」と思わず大山少年は聞き直した。

「こんな弱い将棋では玄人になる見込みがないからだ。お父さんへの言い訳の棋譜だよ。土産だよ」

澄し込んで言葉優しいうちにも大山少年には針を刺す。一言聞くたびに目の前が暗くなった。

「名人になるまで岡山へ帰るなよ」と玄人修行が辛いことは再三、聞かされていた。どんな辛抱でも人一倍に努力する堅い気持ちは抱いている。それが今さき、父君が大阪から離れたばかりだのに、今更ら将来の見込みがないといってオメオメと帰られようか。

ワッとばかりに泣き伏した大山少年、紺絣の袖をしみじみと濡らせて思案に余った。帰ってしまえといわれた限り、このまま長居しては叱られるだろうか。果たして、見込みない将来であろうか、と。

温室育ちの大山少年にして見れば、世の荒浪を切り抜けて、勝負一本の升田兄弟子の線の太さに忽ち驚きの声をあげ身も世もあらず悲しみに暮れたのは当然である。

(以下略)

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升田少年は、大野五段の強力な攻めに対抗するために強靭な受けを身に付けざるをえなかった。

大山少年は、升田二段のこの強靭な受けに苦しめられる。

升田幸三「王手」より。

軍隊へ行くまで--六段ぐらいまでのときは、ぼくは”受けの鬼”といわれていましたから。

大山君がトクをしたのは、そういう兄弟子がおったということで、これが彼の将来に、大きく影響した。

とにかく、むこうがぼくを攻めても、やられてしまう。こまぎれになって。正しい攻めならいいけど、なんとかなるだろうぐらいのところでくるから、わずかのところでやられてしまう。いくら攻めてもやられるもんだから、それで大山君は、受けの基本ができ、そしてさらに、将棋は受けるもんだということを開眼した。

むろん”受け”というのは、ただ受けるだけでは、ダメです。攻めを含んだ受けでないといけない。クモが巣を張って待っておって、引っかかったら最後、刺しにかかるとか、冬がくるまでじっと待ってて、相手を引っぱりこむとか……。冬がくれゃあ油もなにも凍ってしまって、戦車一つ、動かなくなるんだから。それが、”攻め”を持っとる”受け”ということです。殴られっぱなしで、ただ頭をかかえとる”受け”では、ダメなんでね。

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升田、大山の将棋の戦いは、このようにして始まった。

大野なければ升田なし、升田なければ大山なし。

老松町の木見道場、巡り合せの妙も含めて、今から考えると奇跡としか言いようがないと思う。