森下卓八段(当時)の情熱(前編)

感動的としか言いようのないインタビュー記事。池崎さんはすごい。森下卓八段(当時)もすごい。

将棋世界1994年9月号、故・池崎和記さんの「昨日の夢、明日の夢 第9回 森下卓八段」より。

 僕と森下卓との付き合いは、けっこう古い。初めて会ったのは昭和60年、若獅子戦の対井上慶太戦(二人とも当時四段)を観戦したときだった。

 森下は東京に住んでいるので、ふだん交流はないが、彼が対局で大阪に来たときは一緒に酒を飲んだり、焼き肉を食べにいったり、あるいは将棋に対する熱っぽい話を聞いたりとか、そういう機会はけっこうある。

 何年か前、森下があちこちで「準優勝男」と書かれたことがある。僕は「あんまりではないか」と思い、森下に「雑音は無視して下さい」と手紙を書いたこともある。

 森下の将棋に対する熱意はすごい。最近の若手棋士は勉強家が多いけれど(それは非常にいいことだ)、その中でも森下が群を抜いているように僕には思える。

 森下は最近の将棋界ではよくあるタイプに見えて、実は全然そうではないのである。将棋に対する打ち込み方が尋常ではないために、むしろ最も変わった存在と言えるかもしれない。

 といっても、森下はいわゆる”マジメ一辺倒”の男ではない。20代の青年らしい部分も、もちろんある。ここではそういう一面も紹介したいと思う。

将棋の神様はいるか

 東京で話を聞いた。話題は多岐にわたったが、まずは将棋の初手の話から。森下は最近、「将棋の神様」のことを考えているらしいのだ。将棋の初手は30手あるが、森下は「先手の初手の最善は▲7六歩ではないかと感じる」と言う。

―▲2六歩はどうなんですか。

 最善かどうかはわからないけど、疑問手とは思わないですね。では後手の二手目はどうか。これは非常に悩みますね。例えば△8四歩があります。僕もだいたい△8四歩と突くんですけど、疑問手の可能性が高いと僕は見ています。もう一つ△3四歩がありますが、これも最善とは思わない。

―その二つは将棋の常識とされている手ですよ。

 いまのプロの目で見れば、△8四歩も△3四歩も一局ですむわけですよ。でも神様が見たら△8四歩は疑問と見る可能性が高いと思ってるんです、僕は。

―いつごろから、そういうことを考え出したんですか。

 疑問を持ち出したのは、ここ1年弱ですね。将棋の神様がいるとして、僕が神様と平手でやったらどうなるか。僕は1回も勝てないでしょう。香落ちでも勝つ自信はない。それなら角落ちはどうか。これはいくら相手が神様でも負けるとは思わないんですよ。

―初手▲7六歩に対して、最近、二手目△3二金というのがありますね。谷川-羽生の竜王戦では二手目△6二銀も出現した。ああいう手はどう思いますか。

 たとえば二手目△3二金を、本人が最善であると信じて指しているなら僕は別にかまわないですよ。神様が見たら、それが最善手かもしれませんからね。でも、いま指されている△3二金はそうではないでしょう。相手を見て△3二金だから、ひどいなァと僕は思うんです。相手によって金を上がったり上がらなかったりするのは、本人は最善と思ってないわけだから、プロとして恥ずべき態度ではないかと思います。

―しかし勝負という観点から言うと、相手の得意形や研究をわざとはずす、という考え方もあるでしょう。

 なんか情けないじゃないですか。僕だって終盤で粘ることはありますよ。プロは勝つことがすべてだから、勝つために最善の粘りをするとか、相手の意表を突くとか、そういうのは当たり前のことです。でも二手目から△3二金で、相手によって指し手を変えるという態度はどうですかね。

―それも最近考えたことなんですか。

 いや、これはずっと前からです。勝負で見たら二手目△3二金は前からダメだろうと思ってますけど。僕はプロの使命は二つあると思うんです。まず第一に勝つこと。これを抜きにしては考えられない。次にくるのが将棋の真理を追求することだと思うんです。常にその局面の最善を追求する。それを突き詰めていくと一手目の最善は何か、ということになっちゃうんですね。

―しかし、だれにも最善はわからないでしょう。大方の棋士は、そんなことを考えては指していないと思う。

 僕も最近ですからね。神様がいたらどう見るかというのが、その起点になっているわけでありまして……。現在プロが指している手は、神様から見たら悪手の連続かもしれないです。

―失礼ながら、神様から見たら僕と森下さんも対して変わらないのでは。

 (苦笑いして)そうかもしれませんねェ。アマチュアの五段と三段はずいぶん差があるけど、プロから見たらそんなに変わらないですからね。

―僕は神様なんていないと思う。それぞれが自分の考えでやっていくしかないんじゃないですか。さっき森下さんはプロの第一義は勝つことだと言った。だとしたら△3二金みたいな盤外テクニック的な手も有効ではないのですか。

 いや、それは邪道だと思う。プロは1回勝てばいいわけじゃない。ずっと勝ち続けなければいけないんです。そういう観点から見ても、二手目に△3二金と上がる態度や、▲7六歩△3四歩のあと▲6八玉と上がるような態度では、その一番には勝てても勝ち続けることはできないと思うんです。プロ野球でいうと、一番バッターに敬遠しているようなものでしょう。これはやっぱり良くないですよ。

―二手目△3二金は羽生さんもやりました。

 その一局やるっていうのが僕は嫌いなんです。

―みんな最善手がわからないから試している、ということはないですか。

 △3二金を試すんだったら、相手が振り飛車党のときに試すべきですよ。語弊があるかもしれませんけど、△3二金は志が低いと思うんですよ、プロとして。

―森下さんは対局中、いつもそんなふうに真理の追求というのを意識しながら指しているんですか。

 形勢が苦しくなって、どうしても勝たないといけないという場合は、それなりの指し方をしますが、局面がわからないという場合はそうですね。

―森下さんは序盤から作戦負けすることは、ほとんどないでしょう。

 ところが、そうではないんです。そういうふうに言われることが多いんですけど、作戦負けがずいぶん多いんですよ。

―どこかで道筋が間違っているんだ。

 そういう場合もありますし、戦いに持っていこうという局面で、どうしても勝算が見込めず、待ってジリジリ悪くなるということもあるんです。僕ははっきり成算が持てるまで攻めないですから。

―森下さんに最善手がわからなければ、相手もわからないですよ。だから思い切ってパッと行っちゃえば、勝率はもっと上がるかもしれませんね。

 実は谷川、羽生の将棋でそれを感じるんですよ。彼らの棋譜を見ると、決して勝算があって指しているわけじゃないな、と感じることがよくありますよ。

―いい勝負と思ったら、彼らは行くんですよ。

 神様が受けたら簡単に切らせられるのに、いまのプロでは切らすことができない、というのがあるんですね。僕はこれまで羽生君とずいぶんやってますけど、無理して攻めてるなというのがけっこうあります。谷川さんにもそれがある。でも「じゃあ、とがめてみろ」と言われると、とがめ切れなかったというのがけっこうあるんです。

―待ったが1回あれば(笑)。

 僕は対谷川戦は3勝13敗なんです。そして負けた13局のうち、半分はいい将棋。それは要するに、僕が弱いということなんですね。強ければ逆転負けはしないですから。だから、待ったが1回あれば(笑)、勝率はぐんと上がる。いや、これはみんなそうですけどね。

考える勉強法

 森下の考え方は、プロとしては正攻法かもしれない。真理を追求し、それでいい結果が出るなら、こんな幸せなことはないだろう。

 プロはよく言う。序盤で作戦勝ちし、中盤で優位に立って、終盤で危なげなく押し切るのが、理想的な勝ち方だと。もちろん森下もこの考え方である。

 だが―と、あえて言おう。そういう将棋は困ったことに、我々アマチュアから見ると、ちっとも面白くないのである。ドラマ(意外性)があるから胸を打つのであって、もし棋士がみんな「将棋の神様」になったら、きっと観客は一人もいなくなるのではないだろうか。

―観戦記者の立場から言うと、逆転が2回くらいあったほうがいいんですけどね(笑)。

 いや、我々プロが見てても、他のプロの将棋は逆転があったほうが面白いですよ。でも自分の場合は嫌(笑)。野球もそうじゃないですか。投手戦で1対ゼロという野球が一番つまらない。でも監督はそれを狙うべきなんです。

(中略)

―序盤の勉強はどうしてますか。

 例えば羽生-谷川の棋譜がありますね。羽生、谷川が最近こういう将棋をやっていると。でも、それはデータを収集したに過ぎないんです。なぜ羽生君はこう指したのか、と自分で考え、次に、では自分だったらどう指すか、というふうに二段階で考える。これが本当の勉強でしょうね。

―序中盤を研究するわけですか。

 終盤も考えますよ。自分で考えることによって、それが血肉になるわけです。

―森下さんから見て、いま序盤がうまいと思う棋士は   だれですか。

 羽生君、佐藤君……。

―森内さんは。

 うまさはあまり感じませんけどね。

―羽生さんはうまいですか。

 うまいと感じますね。

―二手目に△3二金と上がっても(笑)。

 僕のレベルで見た場合ですね。神様の目で見たら、みんな同じようなものでしょうけど(笑)。

―では終盤力ではどうですか。

 終盤は残り時間の関係もあるから、よくわかりませんね。谷川さんは「光速の寄せ」と言われてますけど、ずいぶん相手に助けられていると思うんです。相手が最善の応手で来たら、別に光速じゃなかった、というのも多いんですよ。

―なるほど。森下さんは矢倉の第一人者だから教えてほしいんですが、最近の矢倉は▲3七銀~△6四角の対抗形が非常に多いですね。一時よく指された▲3七桂はほとんど見ない。なぜですか。

 (後手の)スズメ刺しの影響でしょうね。それが一番大きな理由でしょう。

(中略)

―以前、僕はある棋士から「羽生さんはすべての戦型を研究し、自分で結論を出している」と聞いたことがあります。

 それはウソですよ。そんな結論は出ないです。ただ、結論は出せないにしても”これも一局”という概念は持ってますね。昔、升田先生の名言がありましたよ。ある人が「この局面はどうですか」と聞いたら、升田先生が「強いほうが勝つ局面だ」と答えたんです。

(つづく)

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池崎和記さんの話の引き出し方が絶妙だし、森下卓八段(当時)も心情を余すところなく語っている。

二人の盤石な信頼関係があればこその白眉のインタビュー記事。

森下八段の、「一番バッターに敬遠しているようなものでしょう」「投手戦で1対ゼロという野球が一番つまらない。でも監督はそれを狙うべきなんです」という例えがとてもわかりやすい。

当時の大崎善生編集長が、次の号の編集部日記で「先月の森下さんの巻は凄い反響だった」と書いたほどの記事。

明日もご期待ください。