「僕がAクラスにいようがBに落ちようが、そんなことを知らない人のほうが一億人以上です」

近代将棋1983年1月号、「新春放談 棋界よもやま話 王位 内藤國雄 VS 推理作家 斎藤栄」より。

楽しいなと自己暗示

斎藤 内藤さんや米長さんは、指しながら将棋を楽しんでいるな、という感じがするのですがいかがでしょう。

内藤 僕の場合は「将棋楽しいな」と自分に暗示をかけているところがあります。しんどい、苦しいと思えば何でも苦しいですよ。歌を歌うにしても、しんどいと思えば本当にしんどい。ライトは当たるし、後ろの楽団はやかましいし、頭下げにゃならんしね。だけど、自分は小さい頃から歌が好きだった、聞いてくれる人がいる、ありがたいな楽しいな、とこう思うようにします。将棋も同じで、明日は対局か、一日将棋だけ考えていられる、ああ楽しいなとね。

斎藤 なるほど。それはいいですね。

内藤 その道一筋ということを日本人は尊びますが、一筋であろうと何筋であろうとようするに内容が問題だと思います。一筋でやっていると、特に将棋などは、自分の世界が一番厳しいとつい思いがちなのですよね。サラリーマンや商人は楽でいい、自分のやってることがいかにも大変だと考えてしまうのです。しかし実際に他のことをやってみると、何でも大変だということが分かります。

斎藤 その意味では、他の世界に足を踏み入れるのは本当に良い経験になりますね。もっとも、その道一筋でやっている人は、他の世界も大変なのだろうな、との推量が働かなければいけないのでしょうけれど。

内藤 我々の仲間にも、一芸に秀でた者は全てに通じるなんて言う人がいて、それは自分で言ってはいかん、いうて笑ったことがあります。(笑)気がいいんですね。

普及について

斎藤 僕は本誌に「天野宗歩」を連載しているのですが、今年度は盲人棋客、石本検校の話からスタートする予定です。それにちなんで思うのですが、タイトル戦の一つに盤無し棋戦を設けたらどうでしょうか。プロなら誰だって目隠し将棋は指せる。この点は碁と違って将棋の特権です。これをやったらかなり迫力が出て面白いと思うのですが、可能性はどうでしょう。

内藤 やるとすればテレビでしょうね。別室で大盤解説をしながらね。しかしテレビの新棋戦についてはスポンサーを捉まえるのが難しいですね。僕は五年前に澤之鶴というお酒のコマーシャルを一年間やりました。その時、将棋のスポンサーになりませんかと持ち掛けたことがあります。将棋番組は区切りがあるからかけっぱなしの番組とは違う、見る人は男だからお酒の宣伝にはもってこいだ、また視聴率が低いといっても近所の将棋好きが一箇所にかたまって見ている、といった具合にね。

斎藤 なるほど、なかなかうまいですね。(笑)

内藤 しかしなかなか簡単には行きません。やはり視聴率が高くないし、将棋は男ばかりだけれど、実際に酒屋さんへ買いに行くのは奥さんであるとか言ってね。(笑)ですから斎藤さんもおっしゃっていましたが、これからの普及には女性が欠かせないでしょうね。

斎藤 まさにそうです。これまで将棋界はずいぶん隆盛してきましたが、この調子が続くわけではなく、むしろ限界にきていると思います。他の娯楽がどんどん増えているのですから。これからは女性しかありませんよ。ゴルフだって何だって女性で盛り上ってきましたし。それでその方法ですが、何といっても小学生か中学生の若い女の子を、連盟が出費しても育てる必要があると思います。特に肝腎なのは一人のヒロインを作ることです。ヒロインが居れば女性は自然に増える、それにつれて男性も増えます。百人の主婦よりも若くて強い一人のヒロインを育てることが、普及に何よりも効果的でしょう。

内藤 現在、女流プロは奨励会と別ものになっていますが、一緒にして鍛えるわけですか。

斎藤 もちろんそうです。奨励会に入ってやっていれば、朱に混じわれば赤くなる、というわけで強くなるはずです。今のやり方では伸びませんよ。普及という観点からすれば、一人の一人前の女性棋士を育てることは十人の男性棋士を誕生させることに匹敵します。今は将棋が盛んになって安心している面がある、が本当は頭打ちになっているのではないかと心配なのです。

内藤 将棋連盟の観客動員力をもっとつけなくては駄目ですね。たとえば東京、大阪で月に一度将棋の催しをして、二千円ぐらいの入場券で千名分の客席が八割がた埋まるようになれば大したものですが、今は何年に一度の有料の催しで人を集めるのが大ごとですもの。

斎藤 大衆化という点で遅れをとっていますね。

内藤 僕が八年前から脱線したことの一つには、将棋に関心を持っている人が意外に少いということがあります。ノイローゼ寸前までカリカリやっていっていても、世間はどうということはない。僕がAクラスにいようがBに落ちようが、そんなことを知らない人のほうが一億人以上です。また十年前は対局料も格段と安かった。それでも頑張らねばとの使命感でやってきましたが、そこへレコード会社から声が掛かって。

斎藤 なるほど、そうでしたか。僕は内藤さんのように将棋界以外の世界を体験されたのは貴重だと思います。僕自身二足の草鞋でしたからね。これは人間としての広がりを持つうえで非常にプラスです。そしてそういうあなたがカムバックされてお目出度い。こういう人にどんどん発言して貰いたいですね。

進歩

内藤 僕は八年間ほとんど棋譜を並べませんでした。A級の座を保持しようと思ったら一日四時間のトレーニングが必要だとか言われますが、そういうことも全くしませんでした。それが去年から、よしやろうという気になって、今年の正月、地元の神戸新聞、デイリースポーツ、関西テレビ、NHKの四つの報道機関に「今年はタイトルを取ります」と宣言しました。というのは、去年の暮れ頃から人の将棋の棋譜を並べ出したのですが、八年前と較べて少しも進歩していないのです。それだけ将棋は難しいのですね。これならいける、と思いました。芸術という言葉を使うのは好きではないのですが、将棋には芸術的なところがある。科学の進歩というのは実にめざましいですね。どんどん進む一方です。ところが芸術には退歩したり止まったりするところがある。将棋にもそんな要素があるのかもしれません。

斎藤 科学は進歩しすぎて悪い、かえって人間そのものを壊しているところがある。それは別にして、将棋大辞典のようなものを連盟で作って貰えないものでしょうか。現在、将棋の本はたくさん出版されていて、定跡も多くの人によって様々な解説がほどこされています。しかし系統的なものがない。A八段はこう書いている、B九段はこう言っているといった状態にしておかずに、プロ棋士達が研究班を組み、時間を割いて、本当の意味の研究書を作って欲しい。東京と大阪に新将棋会館が開館した今、容れ物が出来上ったのだから、次はそこに入れる中味の仕事に着手しなければいけない。これにて形勢互角、一局の将棋という結論の部分があってかまわない、とにかく昭和58年なら58年現在、プロの知能を集めてこの局面はこう結論が出ている、ということを調べられる大辞典が欲しいのです。プロが驚くようなものがね。

内藤 ぶ厚いものが何冊も並ぶでしょうね。たとえば今期王位戦の二局目で、僕は横歩取りの中の一番厳しいのをやりました。これについては、アマチュアの沢田多喜男さんが「横歩取りは生きている」という本を書いています。中味の濃い読みごたえのある本ですが、それなどを見ても、あの限定された一番単純な横歩取り4五角の戦法の中にいくらでも手がある。新手の可能性がまだまだあるのです。ですから将棋大辞典はそれこそ非常な大冊になるでしょうね。

斎藤 そうなるでしょう。しかしぜひやって欲しい。言ってみれば科学的な事業ですね。

内藤 今の将棋は科学的というより勝負本意の感じです。辛くてドロドロしているような気がします。一方、詰将棋は科学的と言うのか、ずいぶん進歩していますよ。

斎藤 詰将棋は、大がかりなものは別として、五手か七手から十五手くらいの短編は限界がないものでしょうか。

内藤 それはあるでしょう。たとえば端に桂、香が配置されている実戦型などは真新しいものはほとんどなくて、変化、紛れ、誘い手の配分などでどう表現するかという問題になっています。推理小説の方でも密室殺人事件などで同じことが言えませんか。

斎藤 密室の場合は建物の構造がどんどん変って行きますから、それに応じて新手筋が出てくるということがあります。

内藤 なるほど。私は年間、三百題ほど発表していますが、やはり本当の新題というのは無理ですね。職場で働いている人が気分転換に頭を捻ってくれればそれでいいのです。時には難しいものも出題しますが、普段はそういうふうにちょっとしたパズルを楽しんで貰えば、と思っています。

斎藤 短編詰将棋などはコンピューターに記憶させておいて、発表済みであるか否かを簡単にチェックできるようにしておくとよいでしょうね。詰将棋はミステリー小説に似ていますよ。いかがですか内藤さん、やってみたら。(笑)

内藤 やってみたいですね。完全犯罪の可能性はあると思います。しかしそれをどうやって膨らまして小説にするかが難しい。ドラマを見ていると時々結末のないのがありますが、あれはずるいですよ。あれなら僕にも書ける気がする。

斎藤 人生というのは実は終りも始まりもない。僕らが産まれた時からすでに始っているし、死んだ後もまだ続いているのですから。その意味で終りのない小説というのを提唱した作家もいましたが、やはりそういうのはうけないですね。皆が求めているのは現実ではなくてロマンですからね。まだ続きがあるかもしれませんがここで一応筆を置きます、というのはやはり感動しませんよ。

観戦記

内藤 斎藤さんは将棋の観戦記をお書きになりますが、観戦記に関してはどのような御意見をお持ちですか。

斎藤 私達作家が書く観戦記というのは観戦記者のものとちょっと違うのですが、その辺を誤解されがちですね。観戦記者というのは観戦記を専門とするそれなりのプロであって、指し手の解説を十分にするわけです。僕らは将棋には素人であるから深いヨミがない、と同時に深いヨミに触れて書こうとも思っていません。私が書こうとするのは人間のドラマの部分です。タイトル戦の中で見せる、棋士達の様々な強さ弱さなどね。感想戦での手の解説ばかり書いても仕方がないですもの。書くとすれば、実際にはこの手を指したけれども、もう一つ考えた手があった、それは何だったか、これを考えさせるようにするとか。まあいろいろ工夫するわけです。一つには、書いている本人の人柄などが出るようにもする。

内藤 新聞の観戦記を読む人の多くは棋譜を飛ばして読んでいるようですよ。プロの僕でも棋譜を飛ばして読むことがあるくらいです。簡単に言えば、敗因になった手、そして変った手などがあればその手が書いてあればそれでいいのでしょう。

斎藤 僕ら作家としては、対局者と自分との三人で雰囲気を作り上げているつもりでいる。観戦記者はどちらかと言えば将棋そのものを、それに対して作家は人間的な部分を書こうとするわけです。実際、将棋の指し手を知りたくて観戦記欄を読む人は少いですよ。ところで内藤さんは厄年ですか。

内藤 もう終りました。43歳ですから。

斎藤 ああそうですか。42歳の厄年というのは言ってみればスキーのジャンプですよ。踏み切りを失敗すると無様なことになりますが、うまくやれば非常に大きな飛躍へつながります。42、43歳というのは頑張れば大きく伸びられる時です。僕自身役所をやめたのが40歳で、すぐに厄年を迎えましたが、この辺の踏み切りが非常に良かったように思います。ですから内藤さんも、今年は大いに頑張って伸び伸びと躍進して欲しいと思います。

内藤 どうもありがとうございます。斎藤さんも一層御活躍してください。

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「去年の暮れ頃から人の将棋の棋譜を並べ出したのですが、八年前と較べて少しも進歩していないのです。それだけ将棋は難しいのですね」

この辺が変わったのも羽生世代の登場以降。

序盤から神経を使う将棋へと世界が変わっていった。

先崎学八段(当時)「すべてはふたりが変えたのだ。あの時から将棋界は変わっていったのだった」

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「昭和58年なら58年現在、プロの知能を集めてこの局面はこう結論が出ている、ということを調べられる大辞典が欲しいのです」

これは、あれば便利なのだが、年に一度の発刊としても、毎日読んでも1年では読み終えることができないほど膨大なページ数になることだろう。

このようなサイトができればもっと便利だけれども、更新が非常に大変になりそう。

ある戦型に絞った「定跡最前線」のような電子書籍があって、初期費用○○○○円、年間更新費用○○○円のような課金形態で、内容に変化がある都度加筆していく方法も考えられる。

もちろん、形勢不明の局面がたくさんあって、すっきりとした読後感にはならないだろうが。

 

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