森下卓八段(当時)の情熱(後編)

将棋世界1994年9月号、故・池崎和記さんの「昨日の夢、明日の夢 第9回 森下卓八段」より。

初めて恋をした

 森下によると、プロデビュー(昭和58年)してから3年間は「純粋に弱かった」そうだ。「大局観が甘く、読みも甘かった」と。その彼がめざましい活躍を見せるのは平成元年度からである。

 平成元年度=51勝18敗

 平成2年度=56勝18敗

 平成3年度=54勝23敗

 3年連続、50勝をキープ。もちろん勝率だけでなく、竜王戦の挑戦者決定戦進出(元年度)、新人王戦優勝、天王戦優勝、全日本プロ優勝、棋聖戦挑戦(以上2年度)、竜王戦挑戦(3年度)と、大舞台でも輝かしい戦績を残している。

 ところが平成4年度に入ると、突然森下の成績がガクンと落ちてしまう。

 平成4年度=38勝21敗

 平成5年度=27勝20敗

 森下に何が起こったのか―。

 実は、恋をしたのである。いや、正しく言えば「失恋」で、それがモロに将棋に影響したのだ。

 24歳のとき、初めて好きな女性ができた。しかし、それは森下の片思いで、結局ふられてしまう。26歳のとき2回目の恋をしたが、これも成就しなかった。2回も打撃を受けては、将棋がガタガタになるのも無理はない。

―失恋の話を聞かせて下さい。僕はそれを聞きたくて東京へ来たんです(笑)。

 これを言えば笑い話だと思われるかもしれませんが、順位戦の終盤で秒読みになったんですよ。秒を読まれているんだけど、彼女の顔が浮かぶんです。

―それはかなり重症ですね。

 おかしくなってるんですよ。

―逆に言うと、おかしくなるぐらいの恋をしたというわけですね。

 これでは勝てないですよね。

―でも、そういうのって経験を積んでいったら簡単に直りますよ。

 僕も直そうと努力してますよ。もう3年ぐらい尾を引いてますけど……。これがいい体験に持っていけるんじゃないかと思うんですよ。でも当初はすごい打撃を受けて、将棋はボロボロになるし、生きてるのが嫌になりました。

―そう言えば最近、タイトル戦に出てませんね。A級には上がったけど。

 運がいいんです。順位戦だけ勝ったというのが不思議です。

―六段までの森下さんと逆だ。

 非常に貴重な体験になりましたね。だから24歳が僕の分岐点なんです。

―いま、恋人イナイ歴は?

 1年です。

―少しは落ち着いたわけだ。それにしても24歳で初めて恋をするなんて、珍しいですね。

 棋士は多いですよ。

―例えば10代のころ、女性の体が欲しいなんて思ったことはないですか。

 ありますよ。当たり前じゃないですか。でも当時は恋人が欲しいとは思わなかったですね。それが24歳になって初めて好きな人ができた。自分で言うのも変ですけど、初めて人生の鍛えが入ってるような感じがしましたね。だから得難い体験をしたと思うんです。

―これからまた、好きな人はいくらでも出てきますよ。ただ、そのときに恋愛を恐れたらダメだと思いますけど。

 恐れはしませんけど考え方が全然違いますよ、昔と。やっぱり、いままでがウブでしたね。

―で、どんな3年間でした。

 つらかったですよ。

―つらい?

 つらい、つらい。

―諦めが悪いんだ(笑)。さっさと次を探せばいいのに。僕ならそうします。

 池崎さんは愛が薄いんじゃないですか。

―失礼な。

 僕はこの3年間、どれだけ将棋を負けたかわからない。ただ、それで自分の弱さがわかったのも事実なんです。僕は昔、勝てば上がるという一番を負け、でも、ここでくじけてはいけないと思ってすぐ努力を開始してたんです。ところが、そういうのが、できないんですよ。頭はフラフラ、生ける屍みたいなもんで。理性で勉強しなければいけない、勝たなければいけないというのが多少は残っているから、盤に並べて考えるんだけど、角道開けようが飛車道突こうが、そんなのどうでもいいや、という気持ちになって……頭の中にあるのは、その人のことだけ。これじゃあ勝てない。

―でも、言うほど負けてないですよ。平成4年度だって40勝近くいってる。

 僕は50勝しないとダメと思ってるんです。この3年間、女のことで頭がいっぱいで勝てなかったけれど、でも本当は勝ちたいという意欲が強ければ、勝っていたはずなんです。こういうことがあって成績が落ちたというのは、結局、自分が弱いからですよ。それが一番の根本で、女で負ける程度の弱い自分があったに過ぎない、ということですよ。それまでは弱さを表す原因がなかったから表れなかったけど、恋愛体験が引き金になって、それが表面に出てきたんですね。

―でも、その体験がなかったら、将来もっと大きな悲劇が待ってたかもしれない。その意味ではいい経験ですよ。

 そうですね。でも、この3年間の負けはメチャクチャ痛い。

―A級に上がれたんだから、実質2年じゃないですか。

 池崎さんね、どこに基準を置くかって問題がありますよ。Aクラスに入ってタイトル取るのが当たり前だと思ってるのに(笑)、これだけしかできなかったんですから。

―あ、これは失礼しました。

すべては、これから

―森下さんの目標は。

 努力目標は年間50勝ですね。死んでも勝ちたいというのは40です。

―40勝するのはきついですか。

 全然きつくないですよ。

―夢は。

 僕ね、生涯、1500勝を超したいと思ってるんですよ。

―現在427勝ですね。

 30年で達成したい。だから最大の夢は生涯1500勝。次は年間50勝。そして、次がタイトルですね。タイトルは取るだけじゃダメで、常に維持してないとダメだと思ってますから。

(中略)

 このあと、米長邦雄の魅力、東西の若手棋士の違いなど、興味深い話をいろいろ聞いたのだが、残念ながら紙数が尽きた。インタビューが終わると森下は「これから将棋会館に行きます。C級2組順位戦があるので」と言った。順位戦はよく見にいくらしい。

 コーヒーハウスを出ると、森下が「3年間、負けすぎましたね」と、また同じことを言った。僕が「森下さんの通算勝率は7割に近いんですよ。低段時代の7割は大したことないけど、A級に行っての7割は立派じゃないですか」と言うと、森下の顔が急に険しくなった。

「それなら羽生君はどうなるんですか」と森下は言った。

 そうだった。羽生善治の通算勝率は7割5分を軽く超えているのだ。志の高い森下に「立派」なんて言葉を出してはいけなかったのだ。僕は自分が恥ずかしくなった。

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森下卓八段(当時)は、翌1995年に棋王戦と名人戦で羽生善治六冠(当時)に挑戦をすることになる。

1996年の羽生善治七冠誕生の際に、周囲が賞賛する中、森下八段のみが「棋士全員にとって屈辱です」と語ったのも、このインタビュー記事を読めば、その気持が非常によく理解できる。

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中学2年の時、同じクラスの女の子を好きになった。

好きになったと言っても、特別に何をするというわけでもなく、教室内で必要な時に普通に会話をする程度のものだったが、たしかにその時は学校の成績が落ちた。

家で勉強をしていても、頭に浮かぶのはその子のことばかり。

それが中学2年の5月から9月上旬までのこと。

9月中旬に、その子がクラスの別の奴を好きなのではないかということを雰囲気的に察し、心の中の恋は終わった。

私は9月下旬から、クラスで流行り始めていた将棋に猛烈にのめり込んでいった。

家で勉強をしていても、頭に浮かぶのは将棋のことばかり。

学校の成績は、更にどんどん落ちていった……