将棋世界1994年7月号、東公平さんのシナモノエッセイ「自転車」より。
升田幸三少年は、来客の自転車を無断で借りて遊んでいた。坂道で猛烈なスピードが出たが、なんとブレーキがこわれていて「受けなし」に陥り、ついに岩に激突、片足を骨折する。「これではもう武術家にはなれん」と諦めたのが将棋に熱中する動機になった。しかし後遺症はなく、軍隊では銃剣術の名手とうたわれ剣道は五段。身のこなしは軽く、座敷を歩いてもスリ足で音を立てなかった。中野に住んでおられたころは、自転車で対局に来られたことがあった。
(中略)
競輪好きな棋士が多いせいかどうか、東京の奨励会の旅行で伊豆の山中にある自転車学校によく行く。同じ「勝負師の卵」の厳しい修行ぶりを見学の意味もあるらしい。目まいがしそうなほんもののバンクを走るスリルも体験できる。今の棋士では体力派の豊川孝弘四段が「アマ名人級」の健脚。やめた人では、分解して持ち運べる高価なツーリング車まで持っていた片山良三さんを思い出す。
競輪愛好家の元祖は木村義雄十四世名人だったが、名人は賭博に類する遊びにのめり込むタイプではなく、著名人として頼まれて「日本自転車振興会」に力を貸しておられたのである。
千日手が「翌日指し直し」だったころ、しめし合わせて千日手にし「この型の打開策を研究中なんだが」などとミエミエの感想戦をちょっとやり「じゃあまた明日」。午後からエビス顔で競輪場行きという「新定跡」が創案され流行した。かかる不心得な棋士は、たいてい恐妻家だった。徹夜でも昼飯前でも日当は同じだから記録係は喜ぶ。みんな幸せ、将棋連盟やや迷惑につき、理事苦笑、その程度で事がすんだ古き好き時代である。
しかし棋士夫人が毎度ごまかされていたとは考えられない。「新定跡」の裏を見すかして「しょうがない人ね」の黙認状態だったろうと思うのだけれど「千日手は、罰として対局料が半額になる」とか、信じ込まされていた甘い奥さんが一人や二人はいたかもしれない。
(以下略)
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千日手にしてからの競輪場、昔は研究会などもなかったので、恐妻家の棋士が奥様公認で外出できる機会は対局の日に限られていたのかもしれない。
昭和20年代~30年代の相掛かり腰掛銀などは、中盤の戦いが始まる直前で千日手になるような戦型だった。
昨日の記事の「奥さんへの告げ口」が盤外戦術として効きそうなケースのひとつと言えるだろう。
田丸昇九段のブログ「と金横歩き」では、千日手規定が
1960年代後半に、午後3時以降に千日手になった場合は翌日指し直しで、午後3時以前は即日指し直し
1970年度からは、すべての千日手(タイトル戦は除く)が即日指し直し
と変更になったと解説されている。
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片山良三さんは奨励会を退会後、サンケイスポーツに入社。武豊騎手の初代番記者となって現在はライターであるとともにゼンノマネジメントでレーシングマネージャーを務めている。
先崎学五段(当時)の将棋世界1992年9月号「先チャンにおまかせ」によると、1990年8月に函館で起きた「点のある・ない論争」の場に、中村修七段(当時)、郷田真隆四段(当時)、先崎学五段と一緒に居合わせたのが片山良三さんだった。
先崎学五段は、片山良三さんはハルク・ホーガンにちょっと似ていると書いている。
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渡辺明二冠のブログにも片山良三さんの名前が登場している。
そういえば、渡辺明二冠も自転車愛好家だ。
(片山良三さん関連の記事)