恋の序盤

近代将棋1988年12月号、谷川浩司名人(当時)の連載エッセイ「新幹線車中にて」より。

 9月28日。東京での対局の合間に、中村七段と二人、新幹線で福島へ向かった。

 行き先は飯坂温泉。王座戦第3局、塚田王座対中原前名人の対局を見るためである。

 一時はタイトルを独占、世代交代を完了させたかに思えた二十代も、南王将が棋聖を失い、私が王位を失い、高橋十段が竜王戦での権利を失い、この時点で四つまでに減っていた。

 そして塚田君も既に二連敗。

 将棋マガジンで、塚田君が王座戦第1局の自戦記を書いている。

「完全決着をつける」、「僕らには時間がない」など、かなり大胆な言葉が飛び込んでくる。

 塚田君は今期調子が良くない。通算成績も負け越しである。彼らしい読者へのサービスもあったかもしれないが、この自戦記には、やや焦りと気負いが感じられた。

 やまびこ49号は、16時37分、福島駅に到着した。

 福島TVの方が迎えに来ておられた。制作部の渡辺さん、アナウンサーの辻さん。二人共塚田君とは顔馴染である。

 実はこの福島対局。塚田王座の口利きで実現した、と言えなくもない。

 対局者が主催紙に対局場を紹介する、ということは珍しいことである。というよりも、対局者は主催紙任せの方が楽だからである。

 本人は否定していたが、対局者でありながら、対局が無事終了するかを見届けなければいけない、という負担が少しはあったのではないかと思う。

 だが、結果的には、福島県での22年ぶりのタイトル戦となったし、福島TVも数回にわたってニュースを流し、大盤解説場でも熱心なファンの姿が見られた。

 塚田君は普及のために素晴らしいことをしたと思う。

 将棋の方も大熱戦となった。

(中略)

 23時37分。塚田王座は投了した。同時に、二十代のタイトルも三に減った。

 前期、二連敗の後三連勝の大逆転でタイトルを獲得した塚田君だが、奇跡は二度は起こらなかった。

 第2局、第3局と連続して見せて頂いたが、無冠返上に賭ける中原前名人の気迫には、それを許さないものがあった。

「谷川さんが悪いんですよ」

 打ち上げも終わって、彼の部屋で飲み直しをしている時である。

 塚田君が笑いながら言った。割合明るい表情だった。

 先の言葉は冗談だったとしても、確かに、私が王位戦で、挑戦者が必ず勝つ、というジンクスを断ち切っておかなければいけなかったのかもしれない。

 翌日。

 対局等の仕事がある中村七段と私は、夕方東京にもどった。

 塚田君は福島にもう一泊するとか。

 塚田ファンの、福島TVアナウンサーの美女数名と楽しい時間を過ごし、敗戦の痛みを癒やした―かどうかは聞かなかった。

 僕らには時間がない、ということでは決してない。

 塚田君に言うのを忘れたが、それは自分に言い聞かせる言葉でもあった。

 今期、二十代は我慢すべき時なのである。

—–

谷川浩司名人(当時)と「昭和55年組」と呼ばれた20代の棋士がほとんどのタイトルを保持していたが時期があったが、1988年のこの頃に、潮目が変わってくる。

1980年代中盤から1990年代前半にかけての各タイトル保持者の移り変わりは次の通り(茶色の文字の棋士は、この文章が書かれた時点でのタイトル保持者)。

米長邦雄十段→福崎文吾十段→高橋道雄十段→島朗竜王→羽生善治竜王(1989年)

中原誠名人→谷川浩司名人→中原誠名人→米長邦雄名人→羽生善治名人(1994年)

内藤國雄王位→高橋道雄王位→加藤一二三王位→高橋道雄王位→谷川浩司王位→ 森雞二王位→谷川浩司王位→郷田真隆王位(1992年)

中原誠王座→塚田泰明王座→中原誠王座→谷川浩司王座→福崎文吾王座→羽生善治王座(1992年)

桐山清澄棋王→谷川浩司棋王→高橋道雄棋王→谷川浩司棋王→南芳一棋王→羽生善治棋王(1991年)

中原誠王将→中村修王将→南芳一王将→米長邦雄王将→南芳一王将→谷川浩司王将→羽生善治王将(1996年)

桐山清澄棋聖→南芳一棋聖→田中寅彦棋聖→中原誠棋聖→屋敷伸之棋聖→南芳一棋聖→谷川浩司棋聖→羽生善治棋聖(1993年)

すぐに羽生世代へタイトルが移ったのではなく、中原誠十六世名人、森雞二九段、田中寅彦九段がタイトルを20代から奪い取った形だ。

30代以上の棋士のタイトル奪取・奪還と、後から追ってくる羽生世代の10代の棋士の間に挟まれた20代。

「今期、二十代は我慢すべき時なのである」という谷川浩司名人の言葉が重く響く。

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”福島TVの方が迎えに来ておられた。制作部の渡辺さん、アナウンサーの辻さん”とあるが、この辻アナウンサーこそ、中村修九段の奥様になる方。

中村修九段と奥様が出会ったのはこの前年。

はじめは年に2、3回の出会いが、やがて半年に数回、1990年にはそれが月に数回となったと言われている。

そういった意味では、この頃はまだ年に2、3回会うような間柄だったのかもしれない。

この文章に何気なく登場してくる中村修七段(当時)であるが、そのように考えるととても印象的だ。

中村修七段(当時)の結婚