内藤國雄九段「ところで棋士のNG大賞を選ぶとすれば誰になるだろうか」

将棋世界1994年3月号、内藤國雄九段の連載エッセイ「プロとNG」より。

 かって加藤治郎名誉九段が述懐されたことがある。「ファンを前に色紙を書くとき、少々しくじってもそれを言葉に出したり、言い訳をしてはいけない。堂々とした態度で相手に渡すこと。むかし高名な先生からこう言われてねえ、それが心に残っているよ」と。

 これはまずい、と言うと本当にまずく見えてくる。プロたるもの、常に自信を持って振る舞えという一種の心構えであろうか。

 似たようなことが私にもあった。私の場合は歌である。「もし歌詞を間違えたり、とちったりしても、そこで頭をかいたり照れ笑いをしてはいけません。なんでもなかったように平然と最後まで歌い終えてください」

 初めて舞台に立つとき、その道のプロからそう諭されたのである。その点については、これまで一流の歌手が歌詞を間違えても知らん顔で通すのを幾度も見ていたから、すぐに納得がいったことであったが。

 もう少し歌の話について。人は年をとると、自然に声の艶が落ち、とくに高音が出にくくなる。年とった歌手は自分の持ち歌を若いときより音程を下げて歌うのが普通である。その点感心するのは田端義夫さんで、この人は若いときの高い音階のままで頑張っておられる。

 一般に年をとると歌唱力も目立って衰えてくるもので、絵画や書道が年齢とともに深みを増したりするのとは異なるようだ。しかし不思議なことに、これまで幾人かの歌手と対談したが、若い時との比較で素直にこのことを認めた人はいない。「残念だけど、若いときのような声が出なくなったよ」。そうざっくばらんに言ってくれれば、「何々という曲は、今の歌い方のほうが私は好きですよ」というふうに、それ相応の返事を申し上げようと思っているのに、いつも外されてしまう。

 歌手は自ら腕が落ちたことを認めたら最後というわけであろうか。書き損ないを認めるなという書道の心構えと共通しているような気もしたのだが、あるいは違うかもしれない。

 なぜこういう話を持ち出したかというと、棋士の場合との比較感からである。棋士は逆に、ある時期を過ぎると自分の腕が落ちたということを誇張して言う傾向がある。かつて関西に「飛車一枚弱くなった」と口癖のように言う先輩がいた。オーバーすぎると聞く方は顔を見合せたものだ。

 もしそれが本当なら若いころは名人より実力があったということになる。勿論そんなことはあり得ない。貴方の周りにも、そういうタイプの指し手が一人や二人おられるかもしれない。

 同じ技能でも一方は力の衰えを頑として認めないのに、一方はオーバーに認める。その大きな違いが面白い。どうしてそういうことになるか不思議な気がしていたが、次のように考えて納得した。どちらもプライドを守りたいという気持ちは同じだが、仕事の性格の違いがこういう正反対の結果を生むのであると。

 芸事の多くは、将棋のようにはっきり勝負はつかない。一旦できた評価は余程のことがないかぎり安定している。本当のきびしい目を持つのはほんの一握りで、ファンの大半は甘い目で好意的に見てくれるから胸を張っていれば通用する。皮肉っぽい見方かもしれないが、そういった傾向がある。

 勝敗の結果を隠せない将棋は、そうはいかない。言い繕ってもむなしいだけである。それならいっそ、力の衰えをしっかり認めてしまったほうが、昔はこんなじゃあなかったと強調することになり好都合である。まあこういった自尊心のからくりがあるのではないか。

 話は変わるが、ちかごろテレビでは「NG」を扱ったものが人気を博している。

 念のため説明すると、出演者や撮影者の失敗でボツにされていたフィルムばかりを集めて「鑑賞」するもので、つまりはスター人気者の失敗振りを楽しもうとというのである。

 どれが最も傑作な失敗であるかを競う「NG大賞」などはゴールデンアワーに放映されている。コストの点では、もともと捨てたフィルムを持ってくるだけであるから極めて安上がりであり、さらにその番組の宣伝になる。

 それで人気番組が組めるというのは、テレビ局にとってこんなに楽でありがたい話はないのではないか。

 内容はというと、台詞をとちったり、すべって転んだりの失敗をやらかしたタレントが「ごめんなさーい」などと言って頭をかいて謝ったりする。そして、周りが爆笑してまたやり直すといったまことに和やかな撮影のシーンである。こういうのを見るといかにも明るく楽しそうで、芸能界に憧れる人がますます増えそうな気がする。しかし、少しでもこの世界をかじった者の感想としては、実際は決してそんなに甘い世界ではない。

 主役クラスの人気タレントは別としてほかの人はなにかにつけて殆ど人間扱いされないといって言い過ぎでない。

 安い手当、待ち時間の長さ。ドラマのときはほんの片時の出演のために延々と日がな一日待ち暮らす。現場は三Kそのもので、暗い、汚い、きびしい。ちょっとでもとちると大変、どなりつけられて顔がひきつる。

 あまり売れていない女優さんが、「笑うシーンより泣くシーンの方が楽なんです」と言うのも、さんざん待たされたあげく何回も”ダメ”を出されると本当に泣きたい気持ちになるからであろう。

 これに比べれば、誰に諂うこともない棋士はなんと極楽な職業であろうかと私は心から思ったものである。

 ところで棋士のNG大賞を選ぶとすれば誰になるだろうか。

 将棋のNGは撮影の「とり直し」のように「指し直し」はきかないから、即座に負けとなる。どんな人気者でもタイトル保持者でも「あら、ごめんなさい」と言ってやり直すことなど許されない。それでもあきずに華麗なNGをやってのける棋士がいる。

 それは、わが淡路仁茂八段である。

 彼は着手する前にわざわざその駒の裏を見て間違いないか確かめるほど用心深いのに、どういうわけか、とんでもないミスをやらかす。

 二歩、二手連続、王手ウッカリ、駒の裏打ち、角の筋を違えるなど、考えられるNGを一通りやってる。長手数の美学でなる棋士がそういう「一手バッタリ」をやるというのが面白い。

 しかしテレビでそういう失敗をやると、かえって人気をよんだりする。見る者に親近感をよぶからであろうか。

「プロの八段が二歩を打ったのを見て驚きました。あれからテレビ将棋を見るのが楽しみになりましたよ」という声をお聞きした。

 こういうルール違反による一手バッタリのNGは別として、普通の「読みのミス」は歌手の歌詞間違いと似ている。どちらも、内心しまったと思っても面には出さない。

 すましておれば、相手に気づかれずに過ぎることも少くない。これはズルイのではなく、一種の対局マナーというべきもので、プロなら当然のことであろう。

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「同じ技能でも一方は力の衰えを頑として認めないのに、一方はオーバーに認める」

なるほど、将棋の世界は勝敗の結果が明らかに出てしまう。このような視点も、歌手として活躍したことのある内藤國雄九段ならではのもの。

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いかにも酒豪のように見える人が全く酒を飲めないという事例も多い。

淡路仁茂九段のNG大賞も、棋風などのイメージから考えると、故・若山富三郎さんが下戸であったことと同様に、非常に意外なことだ。

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将棋ペンクラブ会報秋号から、内藤國雄九段の「エッセイと必至」、井出洋介さんの「ハイコマ交遊録」の連載が開始されています。

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