近代将棋1990年9月号、湯川恵子さんの「女の直感11 盛夏の妄想」より。
アタシの恋人は、内藤クニオ。
目つきは時折キツイけど、ホロ酔い加減の柔らか~い神戸弁がいつもアタシの耳を優しくなぶってくれる。いや、とりあえずあの外見だけでも友達に自慢できるもんね。こないだホテルで二人が食事している所を友達に見つかっちゃって。仕方なくアタシは彼女に紹介したワ。
「えっ、じゃァ、あの内藤サン……」
一瞬彼女の目に走った羨望、見逃すもんですかアタシ。クニオはひとときアタシ達をスキのないおしゃべりで楽しませてくれた。そしてスイと時計を見て立ち上がり、「しゃァない、ちょいと仕事をしてきますか」―上着の裾がめくれて真紅の裏地がのぞいた。そしてスマートな後ろ姿。このごろは白髪がふえて一段と渋い落ち着きを漂わせている。これで彼、国を活性化するには女性の動員が必要だってことを身をもって理解している男なのよ。
「あら、どこへ行ったの彼」
「ちょっとネ、ステージがあるの。あなたよかったらアタシのチケットあげようか。それとも久しぶりに昔話に花を咲かせる?アタシたち部屋をとってるから、ゆっくりしてってよ彼がもどるまで」
大山ヤスハル……内緒よ内緒っ。彼だけは絶対誰にも紹介したくない。アタシの大切なパトロンだから。お店を持ちたくて一億円ばかり相談した時。彼ったら「あ、そう」と言ったきりウンでもスンでもなかった。どうも人を使って独自の調査をしていたみたい。で、ある日ポンと出してくれた。五千万円。残りは彼が各界のスポンサーに話をつけてくれてアタシ有利な条件で融資してもらうことになったの。常に二枚腰三段構えなのよやることが。癌まで治して今じゃ健康晴れ晴れとゴルフを楽しんでいる。でもやたらと多忙だからアタシのマンションには月に一度しか来ないし、来たってお掃除はしてくれるしカツオ節まで上手に削ってくれるし、せからしいけど本当に手のかからない人なのよ。何より安心なのは一緒に旅行する時。彼が乗る飛行機は絶対に墜落しないから。
あっ、森ケイジ。これはもうどーにもならん、最高の遊び友達ってヤツ。
うっかり約束の時刻に10分遅れちゃった時ネ、行ったら彼はもう始めてた、バックギャモンを。大人しく待ったわアタシ。とうとう二日二晩待たされた。昔シナの宮廷でコケコッコーの朝を知らせた役人を雞人といったけど、これが雞二となると朝が二回来ても気づかぬバクチ狂の意味になる、知ってた?
「ねェケイジ。あなたは一体アタシとバックギャモンとどっちが大切なの」
「やってみれば判るよ、ホラホラ早く座って座って、僕は教え方も抜群なんだ」
ホント。不思議なことにアタシたった一時間でマスターさしてもらった。
天才じゃなーい、ケイジ。
「よしてよ1時間もかかったのは初めてだぜ、僕らの仲間は10分で覚えた」
彼って本当はかなりデリケートな気使いするんだけど、それ以上に照れ屋なの。気を使ってることがバレるの怖さに逆にわざとっぽく大声で気ィ使う妙なクセがある。その点さえ除けば、アタシは彼と飲んでるときが文句なしに楽しい。言葉が常に本音だからネ、笑顔も泣き顔もスカーッとアタシの心に通じてくるわけ。女が相手でもこういうタイプの男って、珍しいんじゃない。ことによるとアタシ男と間違われてるのかナー。
夫? もちろんいるわよ。あらまだ紹介してなかったっけ、桐山キヨスミっていうの。いい人よ、アタシみたいな気の多い女を黙って許してくれてる。仕事は真面目だし浮気はしないし敵も作らない。
お給料は毎月ちゃんと入れてくれてる。すべてが安定してる。そうか、言われてみれば彼、存在感がうすいわねェ。いいのいいの、道中長いんだから、空気みたいな男が一番よ。
実はアタシ、中原マコトが夫としての理想像だった。さすがに無理よねェ、だってあの人強烈な負けず嫌いの性格してるから扱いが難しい。仕事は将棋のほうで定評あるんだけど、なんかこないだのぞいたら歩越し飛車ですごいヘボな形してた。子供たちを相手に勝たねばならぬ商売って大変だろうな。それに音楽の趣味はクラシックでしょ、モーツァルトとか、ブルックナー。そばでアタシが西郷南洲の詩吟うなったりしたらどうなると思って。でもネ、どうにも放っとけない魅力がある。あんな神秘の貫禄をそなえた人物はめったにいない。少なくともよその女に盗られるのは誠にシャクだから、ちゃんとウチの床の間に飾ってあるワ。お客が来たら拝ませてあげてる。この頃は誰が来ても彼ニコニコと妙に愛想が良い。心配だから奥の神棚に上げちゃおうかと考えてるの。
あー暑い。
えーと、何を書いていたんだっけ。たまにはマジメに棋士を語ろうとして……そうそう恋人、パトロン、遊び友達、それから夫と床の間。あと、このアタシに必要なのは過去だわね、むかし別れてまだ未練な男。それから若いツバメと便利なヒモ。
すべて創ってみたけれど、暑さのあまりもう、バテてしまった。続きはまたいつか。
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あまりにも素晴らしい真夏の妄想だ。
「しゃァない、ちょいと仕事をしてきますか」はいかにも内藤九段が喋りそうな会話。
「彼って本当はかなりデリケートな気使いするんだけど、それ以上に照れ屋なの。気を使ってることがバレるの怖さに逆にわざとっぽく大声で気ィ使う妙なクセがある」は、もう絶妙としか言いようがない。
「来たってお掃除はしてくれるしカツオ節まで上手に削ってくれるし、せからしいけど本当に手のかからない人なのよ」は、いかにも大山十五世名人。”せからしい”は大阪弁で気ぜわしいという意味のようだ。
「道中長いんだから、空気みたいな男が一番よ」。湯川恵子さんのお主人の湯川博士さんは”空気みたいな”という形容詞とは正反対な雰囲気である。
床の間から神棚というのも、なかなかだ。
湯川恵子さんが、内藤國雄九段、大山康晴十五世名人、森雞二九段、桐山清澄九段、中原誠十六世名人の個性を見事に表現している。
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内藤國雄九段が、膝と腰の痛みで長時間の対局が難しくなったことなどから、3月末をめどに現役を引退する意向を明らかにしたことが新聞で報じられた。
→内藤國雄九段が引退表明 将棋現役最年長、体調不良で(神戸新聞)
引退は残念だが、詰将棋の創作や解説や執筆など、内藤九段のこれからの新たな創作面、普及面での活躍を楽しみにしたい。
長年のライバルだった有吉道夫九段が引退した74歳という年齢を1歳上回る75歳での引退も、もしかすると、勝負師としての意地だったのかもしれない。