「ぼくらも将棋を一時中止にして就位式に出ましょうか」

近代将棋1984年1月号、能智映さんの「呑んで書く 書いて呑む」より。

モチ喰って一杯

 わたしのことしの「将棋手帖」は、一月四日までは書き込みがなく真っ白だ。昨年暮れの二十七日まで囲碁の天元戦の五番勝負がもつれ込み、それが終わってようやく年が暮れるのを感じた。あとはゆったり呑んで、翌年への鋭気を養うだけ。だから、この真っ白な部分は、ただひたすらに呑んで寝た時間ということになる。

 ようやく五日。ここへ来て大きく態度が変わる。われわれ将棋・囲碁担当記者の「初仕事」はあちこちとけっこう忙しいのだ。

「まだ松の内だ」とオトソを一杯だけあおって、スカッと家を出たときに感じる空気の新鮮さは気持ちがいい。

 そして、まずは会社の顔合わせへ。これはマー、ほんのオアイソだけ。「おめでとう」だけいってすぐに品川駅から山手線を逆流。秋葉原から市ヶ谷へ。ここには囲碁の総本山の「日本棋院」がある。

 すぐに打ち初め式がはじまる。会館内のホールの舞台に上がるのは坂田栄男九段以下、大竹英雄碁聖、加藤正夫十段、趙治勲棋聖……といったそうそうたる顔ぶれ。このメンバーが紅白にわかれて連碁を打っのだが、適当な時期に打ち手がアマ棋客に変わる。

 しかし、延々と打っていくうちに打ち手が底をついてくる。そうしたとき、便利なのが囲碁担当記者たちだ。「朝日新聞の田村孝雄さま」「読売新聞の藤
井正義さま」「毎日新聞の井口昭夫さま」。

 こうなってきたら、もうシオドキだ。わたしのように弱い記者は席を立って、将棋連盟の指し初め式のほうに向かう一手になる。

 そしてまた行きなれた道を千駄ヶ谷へ。断っておくが、ひとまとめに「将棋・囲碁担当記者」というが、将棋専門の記者もいれれば囲碁専門もおり、両刀使いの者もいて、東京では「東京将棋記者会」と「日本囲碁ジャーナリストクラブ」が別個に活動している。関西のほうは合同した記者会だが、ともかく両方を担当している記者たちは、こうして初顔合わせのハシゴとなる。

 連盟と棋院、どっちに先に顔を出すかというのも好き好き。わたしのように将棋にアットホームな気持ちを抱いている者は、たいがい「あとのほうでゆっくり呑もうや」と連盟をあと回しにする。

 千駄ヶ谷の駅から鳩の森神社方向へ歩くあたりで、われわれと反対のルートの記者たちと行き合い「やあ、やあ」と声をかけ合うのは毎年のことで、そのメンバーも大体決まっている。

 いつだったか、その道を”向こうから来る連中”がモチをおほぼらせながらやってきたことがある。「あれれっ」と思いながら連盟の玄関前まできてみると大山康晴十五世名人以下がペッタンペッタンモチをついていた。とくに大山さんの手つきは素人ばなれしてうまい。

 あとで聞くと「わたしは戦争直後に、郷里で米屋をやっていたことがあるんですよ」と笑っていた。まさに”昔とった杵づか”である。

 それを聞いていた米長邦雄王将が、負けずに「わたしだって「米長」という米屋の生まれだ」と威張っていたという話も聞いたことがあるが、これはマユツバもの。しかし、大山名人が精米所をやっていたというのはほんとうのほんと。

 その半生記「人生に勝つ」(PHP研究所刊)にも、米屋で真っ白になって働く大山自身の姿が描かれていて「もし、棋界が再開しなかったら、……精米所の主人として一生を送ることになるのだろうか」などと、その当時の心情が語られている。

 それはさて、この大山特製のモチをごちそうになったわれわれは、指し初め式に出て三手ほど指して、酒席に回る。

 こんなとき「急げ、急げ」と指し初めの席に早く座るのは、ただ意地汚く酒席に急ごうとするばかりだからではない。われわれ弱い者の指し初めは、駒組のうちに三手だけ指し、あとの手どころは強い人たちにまかせるのがコツなのである。

 パッパッパッと定跡を三手指してしまえば、もうこっちのもの。気の合う人たちとワイワイ騒いでいるうちに日も暮れてくる。

ン百万円放り出し

 だが、こんな酒席はほんのさわり。われわれの酒はこれを皮切りに一年間延々と続く。あとは「おめでとう」の連続だが、その代表的なのが各棋戦の就位式のパーティーだ。

 いま将棋界には十に余る棋戦があるはず。その就位式に全部出るだけでも、月に一度はパーティーだ。それが、将棋と囲碁の両方となると月に二度となり、加えて昇段や古希、還暦、結婚式など個人的なお祝いごとも多いし、記者仲間同士の会もあるので、本心”下手をすると”月に四、五回も祝賀パーティーに顔を出すハメになってくる。

 この秋にも十回ほどの宴席があった。その中の一つ、王位就位式はわたしが担当者だから書きやすい。

 こうした席に出ることの少ないファンの方々のために、誌上だけで申しわけないが「高橋道雄新王位就位式」にご招待してみたいと思う。

 十一月一日、わたしは珍しく正装して朝から将棋会館にいた。こういう日は、会社に出るよりも、連盟にいて打ち合わせをしているほうが落ち度がない。しかし、なんやかんやでやっていても、式の開始は三時なので時間は余る。

 ちょうど昼休み、「棋士はだれかいるかな?」と記者室をのぞいてみる。と、部屋の中は大変な騒ぎだ。「なんだ、なんだ」と顔をつっ込んでみると、テレビが日本シリーズを映し出している。いるいる。野球ファンの中原誠十段以下、米長さん、森雞二八段、淡路仁茂八段……、若手も交えてわあわあうるさいこと。

 やがてCM。急に静かになり、テレビから目を離してわたしのほうをチラッと見た中原さん「あれっ、きょうはビシッとしてますねえ」中原さんは、この日、なにがあるかを知っている。知りながら正装のわたしをからかい、言外に”こっちはカヤの外”といっているのだ。

 するとこんどは森さんだ。「そうか。きょうは高橋新王位の就位式か。そうだ中原さん。ぼくらも将棋を一時中止にして就位式に出ましょうか。ふふふっ」

 二人は大事な名人リーグの対局中、これはもちろん冗談だ。だが。大の巨人ファンの中原さんは巨人が勝っていることもあって上機嫌。ニヤッと笑ってやり返す。

「いいよいいよ。森君が就位式に行っている間、ぼくはずうっと野球を見てるから。少し呑んできてくれればもっといいけどね」

 いっとき大爆笑だったが、すぐに二人はむずかしい顔になって部屋から消えた。そうか。わたしももんびりしてはいられない。

 秘書課の長嶋君と贈位状や王位杯を持って車に乗り込む。車中でまたひと通りの点検。「忘れ物ないね。賞金袋はある?」「ええ、大丈夫です」と長嶋君、ズシリと重いノシ袋を大きなズタ袋から無雑作に出す。

「おいおい、気軽に出すなよ。賞金はン百万円なんだから!」

 聞かれちゃいけない秘密だったが、運転手君がちゃんと聞いていた。「そんな大金お持ちですか。忘れんようにして下さいよ」。

 二人がニタッと視線を合わせたのを運転手君は見たか、見なかったか。実はこのノシ袋、ふっくらとふくらんではいるものの、中はただの紙っぺら。ン百万円はもうとっくに高橋君の通帳に振り込まれているのだ。

 会場の日比谷公園「松本楼」にぴったり一時間前に着いた。やがて、会社のほうからも応援がくる。準備OK。しかし、ヒナ壇の横にポンと置かれて放ったらかしのノシ袋を目るとまたおかしさがこみ上げてくる。

(つづく)

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指し初め式とその後の4階大広間(高雄、棋峰、雲鶴)で行われた新年会。

将棋と囲碁、両方を担当している場合、やはり好きな方を後回しにする気持ちはよくわかる。

好きな食べ物を最後までとっておくのと同じ心理になるだろう。

新年会の後は、それぞれ、帰宅する人、仕事へ向かう人、麻雀に行くグループ、場所を変えて飲み続けるグループなどに分かれるわけだが、場所を変えて飲み続ける人達にとって便利なのが、やはり千駄ヶ谷の「みろく庵」。

近年、棋士の食事で飛躍的に有名になったみろく庵だが、昔からの大きな付加価値の一つは、昼から飲めること。

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「そうか。きょうは高橋新王位の就位式か。そうだ中原さん。ぼくらも将棋を一時中止にして就位式に出ましょうか。ふふふっ」

「いいよいいよ。森君が就位式に行っている間、ぼくはずうっと野球を見てるから。少し呑んできてくれればもっといいけどね」

の森雞二八段(当時)と中原誠十段のやりとりが、二人の個性がよく表れていて絶妙だ。

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目録だけが入ったのし袋。

賞金が入っているのではないかと思えるほど結構な厚みがあるので、複数あると、家に保管するのも結構場所をとると思う。