原田泰夫八段(当時)「一局指しただけでは本当のことは分かりませんが、羽生君は筋のよい将棋のように感じました」

将棋世界2001年2月号、田辺忠幸さんの「羽生善治の軌跡 第2回」より。

 羽生との最初の接点は20年前、昭和56年にさかのぼる。翌年、小学館から発刊の運びとなった原田泰夫・田辺忠幸共著の子供向け入門書「将棋初段への道」の教材の一つに、原田八段(現・退役九段)と羽生少年との二枚落戦が選ばれた。

 当時、羽生は東京都八王子市立元木小学校の五年生。対局は杉並区の原田先生宅で行われ、その模様を記者が書いた。

 まず、少年が駒落ちの定跡を熟知しているのに驚いた。

 見事な陣立てから攻めて出て優勢になった。しかし、上手の巧みな応接にあって大駒が働かず、93手で少年が投了した。まだ飛車も角も死んでいないし、王手をかけられてもいないのに負けを認めるとは子供とは思えず、その見通しの確かさに感心したものだ。

 原田先生はこの将棋を評して、「一局指しただけでは本当のことは分かりませんが、羽生君は筋のよい将棋のように感じました。序盤は完璧です。これからは中盤、終盤の力をつけてほしいと思います。勝負どころでは、もう一歩ふみこんで読んでください。<三手の読み>を身につけて戦えば、ぐんぐん上達することでしょう」と語っていた。

 原田九段はこの二枚落戦が印象に残っているようで、先日も羽生王位8連覇の就位式の際、乾杯のときのあいさつの中で触れられていた。

 羽生少年は翌57年4月、小学生名人戦で優勝、同年12月、二上達也九段門下として奨励会に入り、60年12月に四段に進んでプロにデビューした。

 そのころの将棋はほとんど見ていないが、62年3月26日に第13期棋王戦予選で、”元天才”の芹沢博文九段と戦ったときのことはよく覚えている。

 将棋会館「特別対局室」で大山康晴十五世名人-米長邦雄九段の王位戦リーグ戦と盤を並べての対戦。昼休み、芹沢九段と記者との会食中に、「羽生はまだ将棋が分かっちゃいないね」というではないか。だが、まだ日が高いうちに82手で投了したのは九段の方だった。

%e7%be%bd%e7%94%9f%e8%8a%b9%e6%b2%a2%ef%bc%91

 1図は47手目、芹沢が▲4五銀とぶっつけたところ。対して羽生四段は△3三角と上がり、▲9七角に△1五角と躍り出る。以下▲3八飛に△5六歩が好手で、▲同銀△9五歩▲7五銀△9六歩▲8四銀△9七歩成で優位に立った。▲7一飛の王手には△5一歩の底歩が利くのが強みだ。これで羽生は芹沢に2戦2勝。両者の顔合わせはこれが最後になった。芹沢はその年の12月9日に51歳の若さで世を去った。

(以下略)

——–

故・原田泰夫九段は酒席などで、「原田は羽生に二枚落ちで勝ったことがあるんですよ」と嬉しそうに話されることがあった。

「原田は羽生に一戦全勝」というネタもあったかもしれない。

原田泰夫九段の懐かしい笑顔が蘇ってくる。

——–

「羽生はまだ将棋が分かっちゃいないね」という言葉も芹沢博文九段らしい。

そういえば、私は生の芹沢九段を見たことがない。

見たことはないけれども、昔、近代将棋に次のような文を書いたことがある。

芹沢九段が愛した店

——–

故・田辺忠幸さんは、将棋ペンクラブ大賞最終選考会の時など、その作品の作者の名前を音読みで呼ぶ癖があった。

島朗九段を「しま ろう」、先崎学八段(当時)を「せんざき がく」、小暮克洋さんなら「こぐれ こくよう」、小田尚英さんを「おだ しょうえい」のように、苗字はそのままで名のほうだけを音読みにする要領。

田辺忠幸さん自身が、「忠幸」を「ちゅうこう」と音読みで呼ばれていたので、そうなったとも考えられる。

——–

「小学館から発刊の運びとなった原田泰夫・田辺忠幸共著の子供向け入門書」と書かれている「将棋初段への道」は、表紙が羽生善治少年。

撮影は弦巻勝さん。

弦巻さんもこの本のことを書かれている。

奨励会に入る1年前の羽生善治少年の写真

 

将棋初段への道 (1982年) (小学館入門百科シリーズ)