近代将棋1988年6月号、湯川恵子さんの観戦記『女流プロに挑戦!「50秒」殺人事件』より。
結局……
「結局のところ、僕らヘボ将棋なんだよねェ……」
先刻からガタガタと探し物をしている男が、その手を休めずにつぶやいた。
彼の仕事場である渋谷のマンション。全部の部屋が戸を開け放し、トイレのドアまで開けっ放しで、私の座るダイニングキッチンからすべて見わたせる。
壁という壁にびっちりと本が突き刺さり、床面にも大きなテーブルの上にも雑然と物が積み上げている。
奥の、小さなコタツの上だけはきちんと隙間が見える。このコタツが、ミステリー作家・山村正夫の仕事机だ。
「その日の体調やら何やらで恐ろしく将棋のデキが違っちゃうわけだし。駒を獲ったら損とかって、ああいうプロの計算はいくら教わってもわからない。感覚が全然違うんだよねェ」
将棋が好きでも、わけもなく凝るってタイプではない。プロ棋士との距離感、というかジャンルの違いを、あっさり認識しているのだろう。
で、こういう人ほど口で言うほど弱くはないからまぎらわしいのだけど。
団鬼六氏がこの対局の話を持ちかけた時、山村先生は渋った。
「何言うとんの、相手はあの美人の谷川治恵さんやでってワシ言うた。そしたら彼氏アッそンならやりますヤリマス言いよって。何考えとるんかあの人」
とまァ、団先生。鬼六流はいつもサグリや誇張の味つけで面白過ぎるからネ。これはしっかり取材せねばと山村先生に聞き出した。
「うーん。相手がプロじゃ負けることはわかってるわけだしね。なにもわざわざという気持ちで辞退したんだが……まァ、美人だからいいやって思ってサ……」
なんだ、なァんだ。
(持ち時間各1時間以後1分の秒読み)
▲女流プロ 谷川治恵
△アマ 山村正夫▲7六歩△3四歩▲2六歩△4四歩▲4八銀△4二飛
(中略)
肉まん
というわけで、女流プロは美人のほうが得! プロの身でないことにホッと胸なでおろす私である。
谷川さんに初めてあったのは十年以上前。まだアマチュアで、新宿の将棋クラブで、指しながら、なぜか一緒に肉まんを食べた。
なんてきれいな食べ方をする人だろう、と、その姿を今でも鮮やかに覚えている。
手でち切ったりなんて汚ないことしない。正統に、直接口へ持っていってパク、パクッとなる。その仕草が音もなく繰り返され、肉まんはだんだん小さくなり、いつの間にか彼女の手から消えていた。
かねがね不思議に思うことがある。彼女は、オシャレが上手で身だしなみは常に完璧なのに、そのくせ、自分の顔が美形であることにほとんど無頓着なフシがある。
ユーモラスなセリフや笑い方で、そう感じる。
今回の山村先生登場のいきさつを私が話したら、ありがとうございます、と気取った直後、
「あは、せっせとパックしなきゃ」
笑う時は実にケラケラと大口あけて、心から笑ってしまう人である。
いつか、「アタシはエレベーターガール」とも言ってたっけ。
プロ入りして十年。名人戦リーグにおいて見事にA級B級を往復し続けている。前期落ちたら今期また上がって来た。
ただ、今回の復帰は、彼女の言葉を借りれば「ハイ、うちは母子家庭」という状況の中で勝ち得たものだから、例年とは迫力が違う。非常にシンの強い人なのだろう。そろそろ、エレベーターも上がったまま故障するのではないか。
(中略)
2図以下の指し手
△6四歩▲3六歩△6二飛▲3七桂△6五歩▲9六歩△4五歩(3図)作家の将棋
谷川さんは作家とよく将棋を指すので、作家の将棋に何か特徴を感じますか、と聞いてみた。と、まず、
「長考派」―。
うーむ。本局も山村先生が長考の連続。残り時間が心配だ。
「それから、チャレンジ精神が旺盛。本で研究した?じゃ乗ってみようって。自分でやってみなくちゃわからないだろうって思想を感じますね。とにかく創って行くのが好きみたい」
3図の歩突きなど、まさにソレだろう。運命の岐路になりそうな、こういう難解過激な手を平気で指し、なおかつ局後の検討ではてんで問題にしない。
3図以下の指し手
▲3三角成△同桂▲4四角△2四角▲5三角成△6三金▲6二馬△同金引▲5一飛(4図)山村先生、不利なんじゃない?
4図以下の指し手
△6三銀▲1一飛成△4六角▲同飛△同歩▲8六香△7四銀(5図)山村先生、コレ(5図)は大ポカなんじゃない?
5図以下の指し手
▲7五歩△6三銀▲8三香成(中略)
湯殿山麓呪い村
吸血鬼は眠らない。
壁に耳あり女に目あり。変身刑事。殺人レッスン休講中。
魔性の猫。災厄への招待。
湯殿山麓呪い村(上・下)。死人島の呪い雛。(そして最新刊の)死の花は島に散る。―このたび池袋の芳林堂で私は買い込んだ、山村正夫の本だ。
SFありロマンチックなのあり。ユーモア物あり伝奇ミステリーあり……いったい頭の中、どおなってるんだろう。切り換えが難しいでしょう?
「しょうがないよ切り換えなくっちゃ」
デビューは18才学生時代。『二重密室の謎』が当時の推理専門誌「宝石」に載った。それは手に入らなかった。
「ンなもの読むことないでしょう」
40年書き続けて、あきたこととか頭カラッポになったこととか……
「ンなことしょっ中ですよ」
何をやってる時が一番楽しいですか。
「ああ、書く以外なら何でもいいね」
(とりつくしまもない)
サラリーマンみたいに、平日は朝起きて夕方まで仕事し夜は外で遊びの時間。週末は家族のいる自宅へ帰る。
芝居も趣味だ。劇団「宝石座」を主宰し自ら書いたミステリー劇も公演している。
推理作家協会の理事長を務めたり、人物中心の評論「推理文壇戦後史」が協会賞を獲ったり。講談社フェーマス・スクールの常任講師でもある。山村先生のエンタティメント教室はすでに三人の作家をデビューさせた。私は訪ねた日はテーブルの上で、懸賞小説審査員として選評を書いていた。
いやまあ、とらえどころがない。推理界は松本清張の出現でガラリ流れが変わったがその後の移り変わりを身をもって体験してきた山村正夫が、「横溝正史先生」の影響を強く受けさらに新風を加えて世におくった大作が『湯殿山麓呪い村』。代表作だ。これはハードカバーで出てノベルスで出て、映画化され、角川の文庫版だけで現在60万部を超えた。
「ミステリー界の旗手よ、あの人」
団先生が、珍しくマジな顔で言ってたっけ。
6図以下の指し手
▲6五銀△7八香成▲同金△8五金(7図)強烈なネバリ。これでダマされてこのあと徐々に谷川さんの手元が狂う。
(中略)
出した本は「百冊ぐらい」。書いた作品は「五百ぐらい」。何を聞いても、実に面倒くさそうに答える。
ご自身で一番好きな作品は、と聞いた。
「まァ、断頭台かな」
突然私は嬉しくなった。あ、当たったァという気分。いろいろ読んだけど、やっぱり、山村正夫の代表作はコレだと秘かに決め込んでいたのである。
(中略)
話かわるが谷川さんはグズった。8図、山村陣はとり合えず受け切ったのではない?ここで突然山村先生が、
「70手こえたかな」
えーと、82手です、と私。
「あ、そんならもういいや」
谷川さんが後日、「あの発言、気持ち良かったです」
と言っていた。ちゃんとプロとして認めてもらったような気がして、とのこと。
私は内心、(声が出るとは山村先生も、形勢に余裕感じたのだな)と―。
それにしても彼の時間が、時間が……。記録係を務める私はハラハラした。これは単に、記録とりながら秒読みさせられるのが、自信なかったからだ。
(中略)
刻々と山村先生の時計の針が進む。しかし10図、いかがだろう。ユニークかつ強気な受けでなかなか決め手を与えない。谷川さんは10分残していたが、かなり切迫した気分だったのだろう。以下、何とも際どい綱わたりを展開する。
10図以下の指し手
▲8二銀△同銀▲7二成桂△同金▲同竜△7一銀打▲8三銀△7二銀▲同銀成(11図)読者諸兄、長考して頂きたい。11図の正解は?
局後、強弱とりまぜたギャラリーも参加して散々騒いだあげく、(7一香と受けた後)千日手が正解ではないか、との結論。一同溜息ついたのである。
しかし。ああ。
呪いの時計は魔の赤い爪を突き上げ今まさに振り切ったのである。
「山村先生持ち時間が切れましたので一手一分でお願いします」
私の声がいかに残酷に響いたか、私は私で慣れぬ役目に必死であるから気がつかなかった。
「30秒」……「40秒」……
「え、えっ、そおっ」
と叫んだ彼がどんな顔どんな手つきをしたか、私は腕時計に集中していて見なかった。
「50秒……」
直後。パチャっと駒の音がした。
11図以下の指し手
△8三飛▲6二金△4四角▲8一成銀(投了図)
まで111手で谷川プロの勝ち解説の関根プロが後日、「え、ここで時間が切れたとは気の毒ですね」と言ったそうだ。団先生も、
「あれちょっと、かわいそうやった」
谷川さんまでが、
「アマの人は慣れていないから、2分ぐらいにして上げたほうが……」
あの局面、自分は秒読みに助けられたのだと言う。
してみると、どうも私は死刑執行吏の役をやってしまったみたい。秒読みの脅迫は誰だってパニックを生じる。せっかくの好勝負を……大人げなかったなァと後悔しているのである。
でも、私が取材中の先生の不機嫌なぶっちょうヅラは、そのせいではない。彼はそもそも、推理作家協会きってのウルサ型らしいのだ。
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4図のところでの、「山村先生、不利なんじゃない?」、
5図の、「山村先生、コレは大ポカなんじゃない?」
それぞれの図面にそれぞれ一行だけ書かれたこの言葉が、とても絶妙で、とても可笑しい。
プロ・アマお好み対局とはいえ、なかなか大胆不敵な書き方だ。
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11図の局面で山村正夫さんが秒読みとなり、湯川恵子さんが腕時計を見ながら超真面目に秒読みをしてしまったため、△8三飛~△4四角と慌ててしまった一局。
故・山村正夫さんはアマ四段の実力で、中盤の入り口でほぼ銀損をしてしまったものの、それ以降の粘りの受けがすごい。
秒読みで本当にパニックになってしまったのだろう。
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谷川治恵女流二段(当時)の肉まんの食べ方など、湯川恵子さんならではの観察眼が鋭い。
将棋ペンクラブ大賞観戦記部門で昨年度は大賞、今年度は優秀賞を受賞している湯川恵子さんは、スポーツ報知で女流名人戦の観戦記を長年担当しており、以前は週刊ポストで「トップ棋士が指導する将棋三番勝負」を書いていた。
スポーツ紙、週刊誌、それぞれを読む時の読者を意識しながら観戦記も書いていると話をされていた時がある。
つまり、スポーツ紙の芸能欄などを読んだ後に将棋欄を見て、もしそこだけスポーツ紙らしくなく堅苦しい感じだったら読者は誰も読んでくれない、だから、芸能欄を読んだ後にでも自然と読めるような読みやすい雰囲気を持った記事を書くことを心がけている、ということだった。
湯川恵子さんの観戦記は、品の良い幕の内弁当の容器の中に、鯛の刺身、テンダーロインステーキ、おでん、コロッケ、お新香、焼き魚、すき焼き、湯豆腐、松前漬け、ナポリタン、スイーツなどが整然と押し込められているようなイメージ、と言っても良いのかもしれない。