羽生善治竜王(当時)「珍しいですネ、将棋を指す人にしては……」

近代将棋1990年12月号、林葉直子女流王将(当時)の「直子の将棋エアロビクス」より。

「直子ちゃん、最近また、ぐんときれいになったね」

 なんて言われて、単純な私が喜ばないはずがない。

「うふっ、そうかしら……。あたしって、そんなにきれいになったかしら。鏡よ、鏡よ、鏡さん、この世で一番美しいのは……?」

 なーんて鏡に聞いてみちゃったりして……♡

 うふふ、これは少し自慢し過ぎというものだわ……。

 まだ、私の上にはダイアン・レインがいたわネ(おっとー!)。

 弁解するまでもないが、いや、弁解するとかえっておかしくなるか……、いやいや、やはり弁解しとかなくっちゃ、直子の奴、とうとう頭にきたかと思われるかもしれないから……。

 ともあれこれは冗談。冗談ですよっ!

 しかし、女性って自分のことを「きれいだ」と言われたら、それがお世辞だとわかっていてもうれしいものだ。

 だから、私だってどう言われれば単純に喜ぶ。

 ところが「きれい」という言葉だけに惑わされた私も、将棋界の先生方に言われても単純に喜べないことを自覚させられてしまったのである。

 福岡で高校竜王戦のあったときである。

 私は、将棋を一心不乱に指している高校生の中に眼鏡をかけた子が多いのに気づき、そばにいた羽生竜王に声をかけた。

「将棋って目を悪くするのかしらネ…」

「はぁ……」

 羽生竜王、自分の眼鏡を中指で押し上げながらあいまいに笑った。

「そういえば……」

 私は羽生竜王の眼鏡をかけた目をまじまじと見ながら言った。

「将棋の先生って、ほとんど目が悪いみたいね……」

 すると、今度は羽生竜王が私の目をのぞき込むようにして言った。

「林葉さんも悪いんですか?」

「ううん、あたし、視力は2.0……」

「へえぇ……」

 羽生竜王、感心しきった面持ちでしげしげと私を見つめ、

「珍しいですネ、将棋を指す人にしては……」

と、小さく、フッ、と笑った。

 私はあわてた。

 そうよね。将棋盤を一生懸命見つめたり、ライバルの棋譜を調べたりして真剣に勉強していれば目も悪くなるわよね。

 でも、女流棋士は男性棋士ほど勉強はしないだろうから……

 なんて自分を基準に勝手に判断して(女流棋士の皆さん、ゴメンなさい)、私は羽生竜王の言葉を拒否するかのように早口で言った。

「あら、女流のほうはそれほどでもないわよ」

「そうですか……。中井さん、かけてますよネ、眼鏡」

「えっ、あ、そ、そうよネ……」

 そうだった。広恵(中井女流王位)も目が悪いんだった!

「でも、市ちゃん(清水市代女流名人)はいいわよ……」

と言いかけて、私は口をつぐんだ。

 彼女もコンタクトレンズをつけているのだ。

 ホラ、ホラ、ホラ……というように羽生竜王の目が笑っている。

「そ、そうね。市ちゃんも悪かったわネ……。とすると、ほら、長沢千和ちゃん……。あの人は……」

と言いかけて、これもまた黙らざるを得なかった。

 大きくてきれいな目をもっているくせに、彼女が言っていたのを思い出したのだ。

「あたし、将棋盤の駒を見えないくらい目が悪いの」と……。

 私は、こわばった笑顔を羽生竜王に向けた。

「うふっ……。じょ、女流にも少ないわねぇ、目のいい人って……」

「あはは、そうみたいですねぇ……」

 羽生竜王はいたわるように私を見た―。

 女流棋士も目が悪いとなると、これはやっぱり将棋を指す人のほとんどが視力に問題をかかえているということになる。

 これは健康上ゆゆしき問題だ。

 将棋を指せば目が悪くなる……。

 こんなキャッチフレーズができたら、ファンは逃げてしまうだろう。

 将棋は今、世界に羽ばたこうとしているのだ。この問題を放置しておくわけにはいかない。では、視力をよくするにはどうすればいいのだ。

 簡単だ。視力を悪くする原因を除去すればいいのだ。

 つまり将棋盤をじっと見つめることをやめること。

 棋譜の勉強をやめること。

 研究会などに首を突っ込まないこと。

 こうすれば直ちに視力は回復する。

 かくいう私めは、奨励会に在籍していた中学生のとき、視力は1.2であったのだ。

 それが福岡に帰って上の3点をチュー実に実行した結果、な、なんと2.0になってしまったのだ!(ただし、将棋の実力派それに反比例するのではないか、というご質問には、ノーコメントでございます、コッホン)

 だがしかし、私のこの忠告はおそらく将棋界では受け入れられないだろう。

 なにしろ、わが将棋村の住人は、全員、三度の飯より将棋が好きという人ばかりだから、目なんかメじゃなーいってね……。

 しかし、それはそれで大いにケッコー。

 というのは、

「直子ちゃん、きれいになったね」

と言ってくれるのは、みーんな眼鏡をかけた先生ばかりであり、それも、湯気かなにかで眼鏡が曇って、それをはずして、キュッキュッとハンカチでレンズを拭きながら、目を細めて私を見たときに言ってくれるのだから……(トホッ!)

 ただ、そのことに気づいて単純に喜べなくなった私は、ああ、もう大人の女になったのねぇ。

 いっそのこと世界中の男性が目が悪ければいいなと思う林葉直子でした♡

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現在の女流棋戦のタイトルホルダーは、里見香奈女流名人、甲斐智美女流王位・倉敷藤花が普段からメガネで、、加藤桃子女王・女流王座はメガネをかけている時もあり、香川愛生女流王将は高校時代までメガネだったので、女流棋戦タイトルホルダーのメガネ・コンタクトレンズ率は100%ということになる。

女流棋士全体のメガネ・コンタクトレンズ率についての文献は見当たらないが、苗字のあいうえお順でランダムに見ても、

あ行 上田初美女流三段(10代の頃はメガネをかけていた)
か行 熊倉紫野女流初段(メガネをかける時がある)
さ行  貞升南女流初段(メガネをかけている)
た行 千葉涼子女流四段(メガネをかける時がある)
な行  中倉宏美女流二段(小学生の頃にメガネをかけていた)
は行 久津知子女流初段(メガネをかける時がある)
ま行  室田伊緒女流二段(メガネをかける時がある)
や行 矢内理絵子女流五段(10代の頃はメガネをかけていた)
わ行 渡部愛女流初段(10代の頃はメガネをかけていた)

と、まだまだ挙げきれていないが、やはり、男女問わず棋士のメガネ・コンタクトレンズ率は高いということになる。

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ら行の苗字の女流棋士は一人もいなかった。

ちなみに、男性の棋士も、古今、ら行の苗字の棋士はいない。

よくよく考えてみると、ら行の日本人の苗字そのものがすぐに思いつかない。

無理やり考えて出てくるのが、『あしたのジョー』の「力石徹」の力石。

調べてみると、Wikipediaには、外国語由来の言葉・付属語・擬声語以外の和語でら行音で始まるものはほとんど存在しない、と書かれている。

日本人にら行の苗字が少ないのは、この辺に理由がありそうだ。