将棋日本シリーズ(青野照市八段-羽生善治竜王戦)前日の出来事

近代将棋1990年10月号、林葉直子女流王将(当時)の「直子の将棋エアロビクス」より。

♬ 知っているのに 知らんぷり ♬

 なんて歌があったような気がするが、今回は、どうもその歌をジでいくようなことが私に対してなされていたようなので、恥を承知でその(私にとっては大大)事件をここに書かせていただく。

 ときは8月4日。

 静岡市内で行われる日本シリーズの前日祭でのことである。

 私は朝7時からテレビに生出演。低血圧で朝に弱い私には、大変な重労働だ。

 8時半に放送が終わると、私はそそくさとホテルに戻り、対局の青野、羽生両先生や解説の広津先生らが到着されるまでもうひと眠りとばかりベッドにもぐり込んだ。

 どのくらい眠っただろう。

「先生方が到着されましたので、ご昼食をご一緒にどうぞ…」

というフロントからの連絡で目が覚めたので、ほとんど昼まで眠っていたのは確かなようだ。

 連絡を受けて、私はあわてた。

 ベッドを跳び降りると洋服タンスへ一直線。

 服、服、服っと…。

 選んでいるヒマはない。(もっとも、そんなに何着も持ち歩いているわけではないが…)

 私は二つ三つ懸かっている洋服の中から、結局、朝、テレビ局へ着ていったのをひったくるようにして取り出した。

 今日は、昼食後、何とかいう公園で3面指しをしなければならない。

 この炎天下に外でやるのだ。

 少しでも涼しそうな服装にするとすれば、やはりこのワンピースしかない。

 緑色のうす地のやつだ。

 ただ、着るのが少し面倒なのが玉にキズ。

 背中から腰のあたりまでボタンになっていて、腰からお尻のところまではファスナーになっているのだ。

 こんなとき、いい人がいれば、「ねぇ、あなたン。ボタン、とめてェン♡」なんて甘い声で手伝ってもらうのだが、”只今恋人募集中”の看板をぶら下げている私ではそうはいかない。

 先生方が持っておられる…というせきたてられるような気持ちで、あたふたとすべて一人でやってのけるしかないのである。

 それだけではない。

 服を着ながら、「持っていくものは、あれとこれで…」という具合に、ほかのことにも同時進行で目を向けなければならないのだ。

 ともあれ、私はビデオの早送りのコマのように大急ぎで支度を整え、レストランに直行した。

 昼食はフランス料理だった。

 私はどちらかというと、ラーメンやカレーライスなどのほうが好きだが、ま、ときにはこんなのにも慣れておかなくちゃ…。

 恋人ができたとき、恋を語る場所は、やはりラーメン屋よりフランス料理のレストランのほうが似合うでしょうからね♡

 料理を食べ終えると、私は、「ちょっと…」と、誰にともなく会釈して、化粧直しに席を立った。

 この瞬間(あるいは、そのちょっと前、私がレストランに駆け込んだ時点)から、事件は、おそらく、いや、絶対に、数人の人間に目撃されているのである。

 しかし―。

 ああ、なんということだろう、近ごろの日本人たちは…。

 事件とかかわりになることをおそれたのだろうか。誰一人としてその事件を、哀れな被害者に告げてやることをしなかったのである。

 いや、厳密にいえば、ほんとうはそれとなく告げてくれていたのかもしれない。ただ、そんな知らせ方では、血の巡りの悪いかわいそうな被害者に気づくはずがないのだ。

 私が席に戻ったときである。

 青野先生が、あのひとなつっこい笑顔で言った。

「直子ちゃん。林葉直っていうAVギャルがいるんだよネ。知ってる?」

「あ。私も知ってます。見たことあるんですよ、普通のテレビで…」

 それからひとしきり、その話に花が咲いて賑わった。

 私は、このとき気づくべきだった。

 あのマジメな青野先生が、なぜ、裸を商売にするAVギャルのことを、このウラ若き乙女(誰が?!)の門前で話題にされたかに…。

 やがて―

 時間がきたので、指導対局を行う公園へ出発することになった。

 私は、その事件を知らないものだから、ホテルの前に横づけされた専用バスまで、ズンズンと先頭をきって進んだ。

 そして、バスを降りてからも、目ざす公園へ向かい先頭に立ってズンズン進んだ―。

 ああ…、いま思えば、あのとき、あの公園の手前に、あの信号機がなかったら…。

 それに、その信号機が赤でなかったら…。

 そしてもう一つ、この日本シリーズの関係者であのステキな男性がいらっしゃらなかったら…。

 私は…、私は…。

 アーン。きっと大恥をかいて、今ごろ泣きじゃくっていたわ…。

 私は、赤になった信号機の前で立ち止まった。

 すると、日本シリーズ関係のステキな男性が、ツカツカと私の側に寄ってきた。

「あ、秋篠の宮様と紀子様みたいー♡」

なんて思いが私の胸を横切ったかどうかは忘れた。

 彼は私の耳許に唇をつけんばかりにしてささやいた。

「林葉さん…」「は、はい…」 私はドギマギ。

「あのう…」 「な、何でしょう…?」私はゴクリと唾を呑み込んだ。すると、彼はさも気弱げに言った、「あ、開いてます…。スカートのファスナーが…」と―。

 ガ、ガーン!

 除夜の鐘にはまだ早いというのに、私の頭の中では法隆寺の鐘より大きなショックが鳴り響いた。

 ワンピースの下には、ブ◯◯◯○◯とパ◯◯○だけ。そして、ファスナーは後者の部分…。

 ワーッ、ヒドーイ!私の後ろを”知らんぷり”して歩いていたのは、ド、ドナタ?!

 ついでにパ◯◯○の色も、知らんぷりしていてほしいと願う林葉直子でした♡

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ワンピースのファスナーがどの辺についていたかにもよるが、常に派手に開いている状態でない場合は、かなり注意深く見ていなければわからないということもあったと思う。

あるいは、ファッション的にファスナーが開いているのかな、と思った人は声をかけないだろう。

あるいは、誰かが教えてあげるはずだ、と思っているうちに時が経ってしまったということも考えられる。

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この翌日に行われた将棋日本シリーズ2回戦、青野照市八段-羽生善治竜王戦(タイトル・段位は当時)は、青野八段が会心の指し回し。

1図では、後手陣の6筋の角と銀が壁になっており、なおかつ6一の角の活用も難しく、先手が大優勢。

青野羽生1

119手で青野八段が快勝した。

青野羽生2

 

この時、まだ19歳の羽生善治竜王(当時)。

林葉直子女流王将(当時)が書いているこの前日の出来事が、どれほど影響したのかどうかはわからないが、もしかすると羽生竜王は、ファスナーが開いていることにが気がついていなかったかもしれないという可能性もあり、何とも言えないところだ。