近代将棋1990年11月号、炬口勝弘さんのフォト・エッセイ「二丁目の饗宴 -屋敷伸之棋聖就位式の夜-」より。
ちょうど、羽生竜王と囲碁のプロ・安倍義輝九段がテーブルを挟んで碁を打っているところだった。周りを将棋のプロが取り囲み、一手打つたびにヤジや嬌声が飛んで、なんとも賑やかだった。
ピッカピカの屋敷新棋聖、先崎四段、塚田八段、女流の斎田初段、そして奥の方には田中寅八段、米長王将―。ソウソウたるメンバーが揃っていた。タイトルホルダーが三人。元タイトルホルダーが二人。
すでに出来上がり、盛り上がっていた。それもその筈。その日正午から大手町の産経新聞社で屋敷棋聖の就位式があり、ほとんどの面々が、その後シマを変えてずっと飲み続けていたのだったから。
そこは新宿二丁目。”将棋酒場”としてすっかりお馴染みとなった「あり」であった。
盛り上がって、ついに十八歳の新棋聖に将棋で挑戦ということになった。それまで大長考してママに頼まれた色紙とずっとにらめっこしていた屋敷棋聖も、「棋の心」とやっと書き終えた頃だった。
先崎四段が挑む。敗れると次は師匠がカタキウチに躍り出す。
「どうもこの盤はちょっと不満だ」
ビニール盤の上には、青いマジックで「中原誠三冠王 萬藏」と大きくなぐり書きされていた。藏は歳の間違いだろう。
弟子が師匠に助言する。ちょっと厚目の唇をゆがめると辛口批評や毒舌が飛び出す。それに対して、羽生竜王が、いやそれはムニャムニャと早口で、ちょっとマジになって口を尖らせ反論するのが、なんともおかしかった。手の変化なら、たとえ酒気帯び対局であっても、あくまで厳しく容赦なく自説を通す、自説を譲らないところ、いかにも将棋指しらしい。
「いやあ、すごいですね。いいですね。碁の方じゃまったく見られないことです」
安倍九段も、半ばあきれたような顔で、しきりと感心していた。
もっとも私でさえ、これほどの豪華メンバーが酒場で指すのを見たのは初めてである。ゴールデンカードの目白押しだった。そして最後は若き棋聖に若き竜王の一戦―。これにはたくさんの懸賞がかかった。そして棋聖が勝った。とうとう全戦全勝。
「いいよいいよ、米長企画が破産してもいい。ご祝儀だ」
負けてもゴキゲンの米長王将だった。
十一時過ぎ、お開きとなった。みな有能な順に帰路につく。屋敷棋聖は翌日は昼からながら 対局。羽生竜王も、マンションではなく、遠く八王子の自宅まで帰るという。
だらしのない私は、またハシゴして、最後はオールナイトの映画館に入り、朝を迎えた。
(以下略)
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近代将棋1990年12月号、炬口勝弘さんのフォト・エッセイ「髭」より。
なお、前回の「二丁目の饗宴」の記事中で、屋敷新棋王対先崎学四段(当時)戦、屋敷勝ちとあるのは、先崎勝ちの誤りでした。最初、米長王将が挑んで負け、師匠のかたきと先崎四段が挑んで勝ったものでした。
(以下略)
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大勢で飲んでいる時の記憶は、時には一部が曖昧であることもある。
特にこの日は昼から飲み続けていたわけで、そのような傾向は更に強まったのかもしれない。
下の写真は、屋敷伸之棋聖(当時)が米長邦雄王将(当時)と対局している写真の一部。
写真の左端には羽生善治竜王(当時)が写っている。屋敷棋聖の右側で右腕を上げているのは田中寅彦八段(当時)。
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「 萬藏」は、戦前、数々の最年少記録を更新した横綱・照國萬藏の「 萬藏」にちなんだものとも考えられるが、正確なところはわからない。
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屋敷棋聖の就位式が行われたのは1990年9月14日で金曜日。
この日、偶然「あり」に居合わせたお客さんは幸せだったことだろう。
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「あり」は、1970年代は新宿・ゴールデン街にあった店で、その後、新宿二丁目へ移転している。
はじめは落語家がよく来る店だったという。
その後、作家や個性派俳優も来るようになった。
将棋界で初めて行ったのは故・米長邦雄永世棋聖。
米長棋聖が故・芹沢博文九段や中原誠十六世名人を「あり」へ連れて行って、それから芹沢九段と中原十六世名人が常連となった。
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当時は、羽生善治竜王、屋敷伸之棋聖と10代のタイトルホルダーが2人いた時代。
将棋マガジン1990年10月号では、「屋敷vs羽生、十代タイトルホルダー徹底比較」という企画を組んでいた。
→変態戦法
→1990年版「屋敷vs羽生、十代タイトルホルダー徹底比較」最終回