近代将棋1990年11月号、谷川浩司王位(当時)の「復活への道」より。
6月18日 王座戦 対森安秀光九段戦
三日前の竜王戦も完敗し、連敗も4になってしまった。
この後は半月程対局がない。7月になればツキが変わる、とは思いながらも、何とか連敗を止めたいとの一心だった。
しかし、調子が悪いのはどうしようもない。
2図はその中盤戦。▲8五角と打った局面だが、ここで△6五銀と出られて愕然とした。
こんな手を見落とす程調子が悪いのか。
但し、この将棋を167手まで粘り倒して、逆転勝ち。今考えれば、この一勝が大きかったようだ。
将棋に勝って、こんなに嬉しかったことはない。
6月24日 競馬場へ
中村さん、先崎君と、地方競馬に初めて出向く。
実を言うとこの日に、暑さからか名人戦の後遺症からか、とにかく注意力散漫になっていて財布を落としてしまった。
競馬で負けて気分転換をしよう、と考えていた出鼻をくじかれたわけ。
仕方なく、お金を借りて(先崎君にではない)の勝負となった。
これで負けたらまた借りなければいけないのか、と憂鬱だったが、最初のレースで的中して調子がつき、旅費の分ぐらい儲けることができた。
7月5日 竜王戦 対南棋王戦
いよいよ、復活の狼煙を上げる時。その第一歩である。
二日前には、井上君をマンションの方に呼んで将棋を二局指した。前日は、後手番を想定して、飛先不突矢倉対策を研究。将棋に対する気持ちももどってきた。
久しぶりに満足のできる内容で勝利。本戦にすべり込むことができた。
7月12、13日 王位戦 対佐藤康五段戦
王位戦は、絶好調の佐藤五段を迎えての防衛戦となった。
第1局は、相掛かり3七銀型という初めての戦形を選んだのも悪く、完敗。
打ち上げの後、カラオケ、モノポリーと深夜まで盛り上がってしまい、翌日はしっかり二日酔い。
中原名人の就位式に出るつもりで、一応6時半に起きはしたのだが、そのまま寝込んでしまった。
7月19日 順位戦 対有吉九段戦
対局前日の昼前、俳優の石立鉄男さんから電話があり、食事を御馳走になる。
お会いするのは五年ぶりだが、神戸に来たらふと頭に浮かんだとのことで、心配してくださる方というのは有難いものである。
「遊ばなきゃ駄目よ」と言われ、その通りだと思うのだが、今の私は、遊ぶ暇もない程の対局過多である。
将棋は逆転勝ち。苦しい局面で、辛抱する気持ちが出てきたということか。
7月24、25日 王位戦 対佐藤康五段戦
第2局、力のこもった中盤戦だったが、寄せを急いだのが悪く、敗勢に。
だが、3図での▲4七銀が悪く逆転勝ち。▲5四歩△6二玉▲7五桂なら負けだった。
佐藤五段はここで既に1分将棋。彼でも間違えることがあるんだな、と安心したものである。
対局前日は、知人の案内で千歳と小樽へ。北海道の雄大な自然と、港町の落ち着いた雰囲気を楽しんだ。
7月は5勝1敗で乗り切った。逆転が多いのが不満だが、不調の時は白星が最良の薬。そして、ツキももどってきたようである。
7月29日 長崎へ旅行
東京で将棋まつりに出席した後、飛行機で福岡へ。
知人と井上君の三人で、オランダ村と長崎を見て回る。長崎でしっぽく料理を食べて一泊。翌日はグラバー邸へ。
それにしても暑い。疲れに行ったようなものである。
(つづく)
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2図からの森安秀光九段の△6五銀が絶妙手で、▲同銀なら△5七歩成▲同金△3五角で、後手が優勢になる。
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谷川浩司王位(当時)の、競馬で負けて気分転換をしよう、という考え方が良かったのだろう。
財布を落としたところで、株価で言えばアク抜けして底を打った形となった。
(先崎君にではない)と、先崎学四段(当時)を微妙な形で気にしているところが面白い。
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7月12日~13日の王位戦第1局は、岐阜県の下呂温泉で行われている。
中原誠名人の就位式は7月14日、東京・浜松町の世界貿易センタービルで行われた。
結果的には谷川王位は中原名人の就位式には出席していないものの、就位式のために岐阜県から東京へ出て行く予定をしていたわけで、本当にすごいと思う。
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王位戦第2局は北海道の登別温泉で行われ、谷川王位は前夜祭で毛ガニ攻撃に苦戦しながらも落ち着いた様子を見せていた、と当時の将棋世界には書かれている。
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ところで、先崎学九段は昨日から行われている王将戦第7局の立会人。
立会人は当然ながら中立の立場ではあるが、今日の対局が終わった後の打ち上げ以降、親友の郷田真隆九段が勝っても負けても、二人で飲み明かすことになるのだろう。とてもドラマチックなエピローグになりそうだ。