将棋世界1996年8月号、巻頭グラビア「雪辱に燃える三浦、快心のスタート」より。
羽生善治棋聖に新鋭の三浦弘行五段が挑戦する第67期棋聖戦五番勝負は、6月18日、兵庫県洲本市「ホテルニューアワジ」にて行われた第1局で開幕した。
淡路島は昨年1月、大震災に見舞われたが、復興と活性化の一環として棋聖戦招致を企画。”翔け淡路島”をキャッチフレーズに地元を挙げての協力で、同島では初めてのタイトル戦開催が実現の運びとなった。
前夜祭では両対局者とも、地元の熱気にこたえられるように、内容の濃い、皆さんに喜んでいただける将棋を指したい、と力強く挨拶し、昨年以上の熱戦を期待するファンの盛大な拍手を浴びた。
1年ぶりの対戦となった第1局は、振り駒の結果、前期と同じく羽生の先手に。相掛かり模様の出だしから、敢然と仕掛けた三浦が一気に優位を築き、相手に粘る余地を与えないまま会心の内容で先勝。約2年にわたる羽生の一日制タイトル戦での連勝は、20でストップした。
若武者・三浦が一気にスター街道を突っ走れるか。今後が一層楽しみである。
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将棋世界1996年8月号、野口健二さんの第67期棋聖戦〔羽生善治棋聖-三浦弘行五段〕第1局観戦記「若武者、王者を粉砕す」より。
「近頃うれしく思うことは、タイトル戦がようやく町の話題に上がるようになったことです。主人公は、もちろん羽生棋聖。勝てば、やっぱり。負ければ、すごい人がいる、と。挑戦者の三浦五段の戦いぶりが注目されます」
前夜祭での正立会人・内藤國雄九段のこの挨拶が今期五番勝負、特に第1局の見所を言い尽くしているだろう。
決勝トーナメントで、中原誠永世十段、米長邦雄九段と二人の永世棋聖を連破、挑決で元棋聖の屋敷伸之七段に完勝しての2年連続挑戦は、前期がフロックではなかった証しで、実力は折り紙つき。
そこで注目されるのが、この第1局。特に、一日制のタイトル戦では第64期棋聖戦第3局の対谷川戦から約2年、20連勝を記録している羽生が相手とあって、三浦にとっては是が非でも勝ちたいところだ。
とにかく、最近の羽生は強すぎる。内容ももちろん大事だが、やはり勝敗の上でも拮抗したタイトル戦が見たい。ファンは貪欲なのである。
(中略)
相掛かり模様
一夜明けて、対局当日。振り駒は歩が3枚で、羽生の先手となった。開始の合図から10秒ほどで、大きく息を吸いながら▲2六歩。
対局室のある11階から8階の控え室にいくと、モニターに映し出された盤面は▲2六飛まで進んでいた。前期は第1、2局と振り飛車を連採した三浦だが、本局は相掛かり模様に追随していくつもりのようだ。
そこへ控え室に入ってきた内藤九段が「▲2四歩とは突かなかったな」。
前夜、関係者が談笑している席で、内藤九段が羽生に「▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩に、いっぺん▲2四歩と突いてみてくれないか」といい、羽生は「いえ、指しませんけど」と笑ってこたえる場面があったからだ。
大盤解説会でも内藤九段は、「本には後手優勢と書いてあるが、この位の優勢なら羽生が先手を持てば勝つかもわからない」といって、観戦者の笑いを誘っていた。無論冗談ではあろうが、先日の名人戦第4局のように、定跡で不利とされる順に敢然と踏み込んでくる羽生の姿勢は、ひょっとしたらと思わせるところもある。
1筋を突き合って、普通は▲3八銀だが、羽生はノータイムで▲5八玉。「横綱が両手を広げているような、余裕を感じさせる手」と、内藤九段の評。
持久戦調
早速、産経新聞の奥田記者が1図の局面をコンピュータで検索すると、平成元年以降で前例は7例あった。今年になってからも4局ある。しかし、23手目の▲4八銀から未知の戦いに入った。
1図の▲5八玉は、場合によっては急戦に出ようという手だが、三浦は相手の狙いにはまると見てか、8筋の歩交換も見送り、△4四歩とじっくりした戦いに持ち込む構えをとる。
(中略)
▲6八角(2図)で昼食休憩に。退室する際に三浦が間違えて羽生の草履をはいていってしまうハプニングがあったが、これはご愛嬌。ここは作戦の岐路で、三浦の頭は局面のことで一杯だったのだろう。
一つは△6二玉▲7九玉△8一飛▲5七銀△5四銀左という右玉戦法。もう一つが、昼休を挟んで32分で指した本譜の△4一玉である。
2図以下の指し手
△4一玉▲7九玉△6五歩▲同歩△9五歩▲同歩△8六歩▲同歩△9五香▲同香△6六歩(3図)内藤予想
羽生が初めて長考に入った。
いきなりやってこられてたまげました。もっとゆっくりこられるのかと、が局後の感想だが、ここに至って自陣の危険に気づいたのか、あるいはまだ長期戦になると見て構想を練っていたのかは分からない。
(中略)
午後2時36分、大きな駒音とともに△6五歩が着手された。
▲6五同歩に三浦が考慮中の午後3時、ホテル3階のコンベンションホールで大盤解説会が始まった。解説者は内藤九段、酒井順吉六段、東和男七段で、聞き手に林まゆみ女流1級というメンバーである。
はじめにマイクを握った内藤九段が、現局面の解説を行う。後手が持久戦にするなら、△5四銀右▲7七銀△6五銀▲6六歩△5四銀引という進展。あと、△9五歩▲同歩△8六歩▲同歩(▲同角は△同飛▲同歩△3五角の王手飛車)△9五香▲同香△6六歩と進めば面白いが、対局者は慎重なのでどうなるか。
この後、升田幸三実力制第四代名人や森安秀光九段のエピソード、羽生がなぜあんなに勝つのかという話(羽生と指すと何か出てくるんじゃないかと、いつもの倍考えなければいけないので疲れる。そして勝てそうだと思った時に疲れが出て間違える)が軽妙な語り口で披露されたが、その間に実戦は、内藤九段の予想通り△9五歩から△6六歩まで進んで3図となった。
3図以下の指し手
▲7七金寄△6五桂▲5五歩△7七桂成▲同角△6七金▲6六角△同金▲同飛△8六飛(4図)次の一手
3図では▲5七金△6五桂▲5五歩△5七桂成▲同銀と働いていない銀を使う受けもあるが、以下△5八金▲6六飛△1三角▲6九桂△6五歩で、後手の攻めが続く。
本譜は▲7七金寄~▲5五歩と飛車の横利きを通して必死の防戦だが、△6七金の痛打が飛んできた。放置すれば△7七金~△3五角の王手飛車。ここでも2六飛と7九玉の位置の悪さが、先手は祟っている。後手としても、金と桂香の二枚換えの駒損なので、攻めをつないでいくしかない。
(中略)
△6六同金▲同飛と進み、ここで解説会では次の一手が出題された。候補手は△5五角、△8四角、△1三角。
ところが、三浦の指した手は△8六飛。ぼんやりした感じだが、次に△8四角や2二角の活用を見せた好手だった。▲7七銀なら、△5五角▲6三飛成に△7七角成の強手がある。
4図以下の指し手
▲8七銀△8五飛▲8六金△5五飛▲5七香△9五飛▲6三飛成(5図)淡路流
4図。控え室では、内藤九段を中心に▲5七香を検討していた。△5五角の飛車取りと△1三角の王手を未然に防いでぴったりのようだが、△8四角と打たれて飛車の逃げ場に困る。▲6八飛なら△7六飛▲6四歩△7二銀で、次の△2六飛~△2九飛成が厳しい。4図で▲6四歩の攻め合いも△5五角と出られて、玉の堅さが違いすぎる。
しかたなく▲8七銀から▲8六金と徹底抗戦の構えだが、「淡路流やな」の声あり。淡路島と不倒流・淡路九段をかけた洒落だが、逆に「三浦五段が勝ちなら早く終わるよ」という話も出始めた。
▲5七香の飛車取りに、△9五飛と香と取って、これも2二角が6六飛に当たっている。勢い▲6三飛成と後手陣を薄くして、5図。ほとんどノータイムでの派手な応酬で、何やら羽生マジックが出そうな局面になったが、三浦の残り時間はまだ1時間半以上ある。控え室では飛車を取り合って後手一手勝ちではないかと検討していた。
5図以下の指し手
△9九飛成▲6一竜△5一金▲7一竜△9七角(6図)金が泣いている
じっくり腰を落として考えるかと思われた三浦だが、わずか5分で△9九飛成。予想外の手に、控え室では驚きの声が上がった。
5図で△6三同金は、▲9五金△4九飛▲5九銀打△5八香▲6一飛△5二玉▲6四歩(C図)で、
以下△6一玉▲6三歩成△5一玉▲5三香成△4一玉▲5四桂△2四角▲6九玉△5九香成以下、先手玉は詰みが控え室の読み筋だったが、後手も相当気持ち悪い。
三浦も、△6三同金か△9九飛成か迷ったそうだが、結果的に安全な道を選択したことが勝利に結び付いたといえるだろう。
▲6一竜△5一金▲7一竜と進み、内藤九段が「金が泣いてもうとるわ」。先手の8六金が空振りに終わった揚げ句、△9七角と打たれて質駒になってしまった。
6図以下の指し手
▲6八玉△8九竜▲6六歩△6一香▲5五桂△5二銀▲5四歩△4四角▲2二歩△5四歩▲7四竜△8八角成▲2一歩成△6七歩(投了図)まで、84手で三浦五段の勝ち。早い終局
6図で▲6八玉と逃げる一手に、△8九竜が△8六角成▲同銀△6七歩以下の詰めろ。
▲6六歩と受けたが、△6一香が再度詰めろと同時に自玉を安全にする盤石の一手で、後手の寄せが筋に入ってきた。
2二角の利きを止めて▲5五桂と詰めろを防いだが、次に▲4三桂成と指せないのがつらいところだ。
ここで△5四桂なら、先手は指す手に窮していただろうが、三浦は△5二銀。開幕前「羽生先生を意識しないで、終盤は最善手を指せば勝てると思います」と語っていた三浦だが、勝利を目前にして少しフルエが出たものか。
すかさず▲5四歩といやなところにこられたが、△4四角が落ち着いた手。先手玉の上部脱出を防いで、勝ちを決めた。
投了図以下は、▲6七同金△6六香で受けなしである。
午後5時52分、夕食休憩前の早い終局だった。
約1時間の感想戦を終えて、大盤解説会場に両対局者が姿を現すと、朝からの雨にもかかわらず来場した約200名のファンから大きな拍手が沸き起こった。
「序盤の構想自体がまずかったかもしれない。仕掛けられてからは駄目でした。終盤は手順の組み合わせで何とかなると思ったんですが」と、羽生。
「(△6五歩と)ここでいかないと、後で何かいわれそうなので(笑)。相手が違う人だったら自信があったんですけど」
「(終盤は)スピードはなかったんですけど、確実にいこうと思いました」と、三浦。
一回り大きくなって帰ってきた挑戦者の先勝で、この五番勝負は面白くなった。三浦は剛直で未完成の剣士のような印象がある。この1勝が大きな自信となって、七冠の一角を崩す可能性も十分あるだろう。
一方の羽生は、内藤九段が「調子が悪そうな気がする」といったように、いいところなく敗れた。しかし、ここ数年の活躍を考えれば、たまにはこういうこともあるだろう。久しぶりに先行を許した羽生の巻き返しが見ものである。
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「近頃うれしく思うことは、タイトル戦がようやく町の話題に上がるようになったことです。主人公は、もちろん羽生棋聖。勝てば、やっぱり。負ければ、すごい人がいる、と。挑戦者の三浦五段の戦いぶりが注目されます」
勝てば、やっぱり。負ければ、すごい人がいる。
さすが、内藤國雄九段のスピーチは絶妙だ。
これは、現在の藤井聡太二冠についても、同じことが言えるだろう。
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「前夜、関係者が談笑している席で、内藤九段が羽生に『▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩に、いっぺん▲2四歩と突いてみてくれないか』といい、羽生は『いえ、指しませんけど』と笑ってこたえる場面があったからだ」
定跡書には後手優勢と書かれているが、実際には、思っているほど大差にはならないというか、先手が一気に悲惨な状況になるというものでもない。
1933年(昭和8年)の高段勝抜棋戦〔▲花田長太郎八段-△木村義雄八段〕では、この順が指されている。
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「▲6八角(2図)で昼食休憩に。退室する際に三浦が間違えて羽生の草履をはいていってしまうハプニングがあったが、これはご愛嬌。ここは作戦の岐路で、三浦の頭は局面のことで一杯だったのだろう」
羽生善治棋聖(当時)の草履を履いていってしまうほど2図の局面に集中していた三浦弘行五段(当時)。
そのようなこともあり、△6五歩からの開戦は迫力満点。
一見ぼんやりとしているけれども恐ろしい狙いを秘めた△8六飛から、△5五飛~△9五飛~△9九飛成と華やかな飛車の動き。
三浦五段会心の一局だ。
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「羽生と指すと何か出てくるんじゃないかと、いつもの倍考えなければいけないので疲れる。そして勝てそうだと思った時に疲れが出て間違える」
内藤國雄九段の、羽生将棋の恐ろしさの一面を見事に語った名言。
良くなったと思った時に、魔が襲ってくる。
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「(△6五歩と)ここでいかないと、後で何かいわれそうなので(笑)」
控え室で検討していた棋士たちに、後で何か言われそうと思ったのだろうか。
三浦五段の感想が可笑しい。
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三浦五段のこの1勝で、羽生七冠の一日制タイトル戦での連勝記録(20連勝)が止まった。