将棋と電話

将棋世界1994年10月号、東公平さんの「シナモノエッセイ 電話」より。

 「針金便り」とはなんぞや。明治時代の電報、電話のこと。日本で電話が実用に供されたのは明治23年(1890年)で、東京横浜間だったという。それよりもっと古く、初めて電信線が架設されたときには「バテレンの邪法」と恐れる人がいた。山奥の人たちが弁当持ちで見物になって来て、道ばたにゴザを敷き、じっと上空の電線を見守っていたという実話がある。「ハリガネを伝って手紙が空を飛ぶ」としか考えられなかったからだ。昭和ヒトケタ生まれの私は「チリンチリン、もしもしもし、何番何番、神田の830番……」という童謡を記憶している。そんな昔でなくても、塚田泰明八段のお父さんの会社には「カステラ一番電話は二番、三時のおやつは文明堂」というコマーシャルソングの名作がある。交換手にこっちの番号と相手の番号を告げていた時代の名残りが感じられる。

 日本にまだ「手動電話」が残っているかどうかは知らないけれど、最近の大都市における「携帯電話」の乱用には驚く。電話屋さんはこれからどんどん新型を売る気だが、いくら便利なシナモノでも、普及し過ぎると害毒を生む。待ってましたで変な新商売が繁盛する。

(中略)

 ファクシミリがない時代、タイトル戦速報の棋譜と図面作りは新聞記者にとって難しい作業だった。そのため奨励会員が受ける側の本社に派遣された。「くろ、ななはちシルバー。いいですか。しろ、ごーにーゴールドみぎ」という棋譜の送り方は今でも残っている。しかしラジオ番組の読み上げはキン、ギンだから明瞭な発音が要求され、私もテープレコーダー(非常に大きなシナモノだった)を借りて特訓をやったのを思い出す。

 将棋界三奇人の筆頭、間宮久夢斎六段は無類の酒好きで、ついにはアル中になったが、出身地の伊豆を中心に愛棋家を訪ねる放浪生活を長いことやっていた。沼津の銀行の重役に聞いた話。自宅稽古はお断りしたけれど、月に一回は無心の電話が銀行にかかって来る。「一文無しで旅館に泊まって助けを求めて来るんだがね。ぬるい湯に入ったようで出るに出られず、とかなんとか毎度うまいシャレを言うもんで、笑って腹も立たない」。奇人でなくても、形勢不利の夕食休憩にそば屋で一杯ひっかけ、頑張る気をなくして「電話で投了」する棋士がいた。観戦記には「潔い投了」と書いてあるはずだ。昔の対局規定には「飲酒禁止、夏でも裸体禁止」とあった。裏を返せば、やる棋士が多かったというわけで、序盤技術向上なんかは品位に比べたら知れたもの。今の若手は物足りないほどお行儀がいい。

 某八段の年上の夫人は強烈なヤキモチ焼きだった。浮気を察知すると、わざわざ対局の日の午後、ダンナに電話をかけてくる。取り次ぐと先生は手を横に振って「いないと言ってくれ。頼む」。夫人は「うそおっしゃい。今日は将棋でしょう」と、ドスのきいた(田中真紀子ふう)で事務員を叱る。事務員は困り果てて半泣きになる。電話で夫人をなだめるのは理事の役目だった。

 昔の朝日新聞の将棋欄には木村義雄十四世名人の「講評」がついていた。私がまだ観戦記者見習いのころ、金子金五郎九段の原稿で対局者(升田幸三)の感想と講評とがはっきり食い違っているのを発見した。なにしろA級順位戦だ。昔はファンもうるさかったから、そのまま紙面に出すと質問が殺到しそうだ。意を決して茅ヶ崎の木村名人宅におそるおそる電話をし、食い違いを申し上げると「なんだと。升田君がそう言ったのか」「はい」「よし、調べるから待っていろよ」。やがて電話で「今からそこへ行く」とのご返事。二時間ほど、有楽町でびくびくしながら待った。きびしい顔の木村名人が、つかつかと学芸部へ入って来てものも言わずに鉛筆で講評を書き直した。そして帰りぎわに優しくこうおっしゃったのを忘れない。

 「東君、ありがとよ」

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将棋世界1994年10月号、大崎善生編集長(当時)の「編集部日記」より。

 青野八段が昇段後250勝をあげ九段に昇段。編集部の直通電話から師匠の広津九段へ喜びの報告。将棋世界のこの電話は、棋士達の悲喜こもごもの思いを伝える大役をになうことがある。加藤一二三九段が十番勝負の死闘を終え、対局室から文字通り駆け降りてきてご家族に名人になったことを伝えたのもこの電話だった。伊藤能四段はこの電話で師匠に涙の報告をした。そして今日は青野さんの昇段。連盟職員数名と、祝賀会と称してご馳走になる。お目出度うございます。

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毎日新聞の記者だった故・井口昭夫さんが書かれていたことだが、昭和20年代前半、王将戦七番勝負の棋譜や記事を伝書鳩に託して東京の本社まで送っていた時代があったという。

箱根の山を超える時などは、鷹などが鳩を襲ってきて鳩の生存率が低くなるため、伝書鳩は5羽くらい飛ばしたらしい。

コピー機もないカーボン紙だけの時代だったから、本当に大変なことだったと思う。

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現在はインターネットを通してあらゆる情報を送ることができるが、電話回線を通してコンピュータを利用できるようになったのは日本では1971年からのこと。(銀行のオンラインなど、専用回線で接続されたシステムはそれまでにも存在したが、一般の電話回線でコンピュータを使えるようになったのが、この時から)

当時はTSS(タイムシェアリングシステム…コンピュータの時分割処理)と呼ばれていて、電気通信事業法が改正され電電公社の専用線が開放されることになったことから、日本でもTSSが開始された。

1970年代前半、TSSを日本国内で提供していたのは、電電公社、日本IBM、電通の3社。

それぞれホストコンピュータは日本国内にあったが、電通はGE(ゼネラル・エレクトリック)のTSSのプロバイダーであったため、電通のTSSは後にアメリカのGEのコンピュータセンターに接続されるようになっている。

GEは1970年にコンピュータ事業をHoneywellに売却し撤退しているが、ダートマス大学と共同で開発したTSSは戦略分野と見て、世界中で積極的に展開していた。

当時のTSSは音響カプラーで50~300bps、モデムで1200bps、バッチでも2,400bpsという時代だったものの、国内・国際間受発注システム、付加価値の高いソフトウェアの共同利用など幅広い業務分野で利用されていた。

TSSは業務用だったが、1980年代後半からNIFTY-Serve、PC-VANなどの商用のパソコン通信サービスが開始され、個人が電話回線を通じてコンピュータを利用できる時代となった。

インターネットが日本で開始されるのは1992年頃から。

郷田真隆王将が生まれた年に日本国内でTSSが開始され、初めてのタイトル(王位)を獲得した年に日本でインターネットが始まったことになる。