将棋世界1989年3月号、青島たつひこさん(鈴木宏彦さん)の「駒ゴマスクランブル」より。
1月の上旬だったか、記者室に、中原王座、中村七段、河口六段、羽生五段らが顔をそろえたことがある。話題になったのは、羽生の年間勝ち数記録が史上最高になるかどうかということ。
「今までの一番は米さんだっけ」と河口六段。「いや、一応僕の56勝なんだけどね」例のスマイルで中原王座。
羽生は現在、今期公式戦記録のうち、対局数、連勝記録、勝ち数、勝率のすべての部門で首位に立っている。勝ち数は1月25日の時点で50。確かに中原王座の記録は十分に上回ることが可能なペースである。が、問題は対局数部門で、これは中原王座と一つしか差がついていない。
1月13日、その羽生にとっていろんな意味ででっかい勝負があった。棋王戦敗者組決勝の対南王将戦。この時点で羽生はあと2勝で挑戦権獲得というところまで来ていた。
もし今期棋王戦で羽生が挑戦者になれば、羽生の記録四冠王は自動的に確定するし、それよりなにより、谷川-羽生という最高に面白い対戦がタイトル戦で見られることになる。十代の挑戦者というのも史上初の記録だし、年間勝ち数の記録更新もまず確実である。
気の早い棋界雀の間では「記録四冠と棋王取れば今年の将棋大賞は羽生で決まりかな」なんて声まで出ていたくらい。だがこの勝負、羽生は珍しく南に完敗を喫することになる。
2図がその投了図。羽生が投了したあとは誰が指しても逆転しないといわれるが、確かにこれは大差である。
序盤の仕掛けの構想がまずかったという羽生はそのあと延々100手近くも努力を重ねるのだが、指せば指すほど差は開くばかりでこの投了図。1九にポツンと置かれた成銀が羽生の心境を代弁しているようでもある。
棋王戦の挑戦者争いから脱落したことで羽生の記録四冠はやや微妙な状況になった。
「痛かったな…」
帰りがけ、ポツリと羽生。この天才少年が弱音みたいなのをはくのを初めて聞いた。
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この期の棋王戦挑戦決定トーナメント、羽生善治五段(当時)は準決勝で南芳一王将(当時)に敗れ敗者復活組に回ったので、南王将に往復ビンタをくった形になる。
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あと2勝でタイトル初挑戦となった一番。
独り言とはいえ、将棋での指し手ではなく、勝敗に関して「痛かったな…」のようなことをつぶやくのは、羽生名人にとって後にも先にも、この時だけだったのかもしれない。とても珍しいことだと思う。
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羽生五段は、1月13日のこの敗戦のあと、3月30日までに19局戦い16勝3敗とし、年間勝数64、年間対局数80局、年間勝率8割を実現。連勝記録18連勝と合わせて1988年度の記録四冠となり、1989年に最優秀棋士賞に輝いた。
現在に至るまで、この年度を除いて、無冠の棋士が最優秀棋士賞に選ばれた例はない。
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1978年に将棋大賞が始まって以来、年間勝数、年間対局数、年間勝率、連勝賞の年間四冠王となったのは、1989年と1990年と1993年と2001年の羽生名人だけ。
あらためて、すごい記録だと感じる。