将棋世界1984年10月号、大野八一雄四段(当時)の「関東若手棋士 地獄めぐり」より。
初回の原稿について後輩に感想を聞いてみたら「ひどいですよおー」「無茶苦茶です」等の意見が返ってきた。ところが先輩方にうかがうと、「もっときつく書け」「最後の文章が甘い」等とおっしゃる。
本誌の編集部に至っては、「もっと過激にきびしく、そして日常生活の裏の裏までも書いてほしい」となる。立場によって、こうも違うとは。
(中略)
第二弾は、ギャンブル地獄より泉正樹四段に登場していただいた。
私が初めて彼を見たのは、今から10年も昔のことで、まだ13歳の子どもであった。あおの時分の泉といったら、可愛くて、素直で、(今は違うと誤解するのは自由ですぞ)蚊の泣くような声で返事をする、かなりのぶりっ子だったと私は記憶している。
まずは、そのぶりっ子ぶりを紹介してみよう。登場人物、片山、室岡、大野、泉、ナレーター。
ナレーター 時は今から9年程前、奨励会の例会後の話である。雑談に花を咲かせすぎ遅くなったため、室岡を除いて皆家に帰る電車がなくなってしまった。いつもどおり一行は室岡邸へと足を運ぶこととなる。
片山 まだ午前3時か。寝るには早いし、麻雀でも打ちたいなあ。
室岡 でも、泉君は麻雀できないよねえ。
泉 (蚊の泣くような声で)はい。
大野 教えてあげようか。(悪い奴だ)
ナレーター 結局、泉だけが打てないため、雑談を続けることになる。泉は何も喋らず、黙って聞いている。しばらくして、室岡がコーヒーセットを持ってくる。
室岡 コーヒーでも飲もうよ。
片山 サンキュー。
泉 ……。(聞きとれなかったが、どうもと言ったらしい)
大野 悪いねえ、ところで泉ちゃん、家に泊まると連絡した?
泉 ……。(首をタテにふる)
片山 泉君は、何も言わないんだね。
ナレーター 泉は、先輩の問いに対して、何か答えなくては失礼だと、口をモグモグ動かすのだが声(音)にならない。そこでお湯がブクッブクッと沸騰した音をたて始める。
片山 ブクッブクッ。
泉 クスッ。(何やら口元に白い物が見える)
大野 ブクッブクッ。
泉 クスックスッ。(笑っているようだ)
室岡 ブクッブクッ。
泉 クスックスッ。(顔をひきつらせて、笑いをこらえようと必死。しかし口元はもう限界のようで、顔を真っ赤にして耐えている)
片山・室岡・大野 (声をあわせて)ブクッブクッブクッ。
泉 クスックスッ。ウハハハハァ、苦しいもうだめだあ、ハハハハハハァ。
ナレーター 泉はおかしさのため、腹を抱えて転げまわりだした。目から涙を流して。
しかし、若い女の子が、ハシが転んだだけで笑うとは聞いていたが、お湯の沸く音で笑い転げるとは。信じられますか?このように子供だったんですよぉ。泉は。
泉の大変身
2年の月日が流れた。泉も15になり、家を出てアパートを借りた。
新宿の雀荘での出来事である。小生が麻雀を打っていると、青柳という先輩と泉が入ってきた。
大野 あれぇ泉ちゃん何しに来たの?
泉 ええ、ちょっと。
大野 青柳さん、ダメじゃない。こんな所へ出入りさせちゃ。
青柳 泉君に誘われたんだよー。
大野 ウソッー。あれ、泉ちゃん胸ポケットの物は何?
泉 ダバコです。(と言い、タバコを取り出し、うまそうに喫い始めた)
それを見た大野は、ハトが豆鉄砲を食らったような顔をし、口をポカーンと開けていた。しばらく、泉は大野達の麻雀を見ていたが、店の恐そうな常連に誘われ、別の卓で打ち始めた。そこには昔の可愛かった半ズボン姿の泉の面影はなく、声変わりした泉があった。大野がこの日、大負けしたのは言うまでもない。
麻雀を覚えてからの泉は、行動は男らしくなり、勝負に強くなった。将棋でも、前は昇段昇級の一番を何回も逃し続けたのだが、麻雀を覚えてからは四段に昇段するまで、一度もチャンスを逃さなくなった。私の身近にいる男たちの中で、ギャンブルを覚えて、それをプラスにしたのは泉だけである。人間もすっかりたくましくなった。(行動が乱暴になったと言う人が多い)
多少年上の人と打っている時などは、「おい若けえのぉ、ここでそんなパイが出るようじゃ、まだまだあめえ」と言いながら、ビールをうまそうに飲むのだから、あきれるぐらいである。そして、19の頃には毎晩のように新宿の繁華街に現れ、酒を飲みバクチを打つようになる。博才のある泉は、麻雀、カードで稼ぎまくるのである。
あるトッププロ雀士曰く、(泉が奨励会二段の頃)「私は将棋は分からないが、万が一将棋の道を捨てても、彼は麻雀で食っていける」というお墨付きが出た程である。このことを耳にした棋士たちは、泉のことを棋界の麻雀のプリンスと仰ぐようになった。泉もその声援に応えようと、毎日腕を磨く。酒をあおり、バクチを打つ日々がつい最近まで続けられた。
最近、酒場でこのような名言を吐いた。
「女に私の気持ちが分かってたまるか。泉に女など必要ない」
これぞ本当の勝負師に似合う言葉である。
最近、かたさ(真面目)だけが、やたら目につく若手の中にあって、唯一、飲む、打つ、買うが出来る男だと、先輩からはいつも可愛がられている。
泉らしいエピソードを紹介してみよう。
将棋大会の審判を頼まれた前日の夜、泉は気の合った仲間たちとカードをしていた。当然のごとく徹夜。日が昇り、会場へ行かねばならぬ。そのままの格好で家を飛び出した。カードに明け暮れているため背広の胸ポケットには意識せずにカードを入れる習慣が身に付いている。
会場につくや否や、審判として紹介を受け、頭を下げた時、ポケットよりカードがパラッパラッとこぼれ落ちた。場内は一瞬、何が起こったのだろうかという顔で沈黙が流れる。こぼれ落ちたカードを必死にかき集める泉。呆然と見守る人々。紹介の時に拍手が遅れたのは言うまでもない。
最新情報で泉が酒、バクチから足を洗ったと聞いた。これは大変だと思い、本人に確かめたところ、懐がパンクしてしまい、やりたくとも出来ないと言う。これにいい機会だから将棋に打ち込んでみたいとも言う。私が、それじゃあ、少し貯えが出来たらカムバックするかと質問すると、不思議そうな顔で「当然」。
安心しましたよ。びっくりさせないでよ泉ちゃん。
キラッと光る将棋
最後に泉の性格、将棋についてふれてみたい。
勝負師タイプであって、さっぱりしている。人を騙そうなどと決して考えない。素直で、つき合いのよい男である。しかも、仕事は仕事としてきちんとけじめをつけることが出来る。研修会の幹事を務めていることから、信頼も厚いのが分かっていただけよう。
将棋も才能に恵まれ、キラッと光る手をよく指す。
棋聖戦の一次予選より(対島戦)泉の読みの深さを紹介する。A図は終盤、泉が▲4一飛と打ち込んだところ。皆様はどちらが勝っていると思われますか?
実戦では、島が△5八とと指したため▲9八玉以下泉が勝ち切った。平凡に考えれば△5八とは筋のよい普通の手なのであるが、これでは勝負になっていなかった。
正解は△6九銀である。当然島もこの手は考えた。だが、自陣は銀を渡すと▲2一飛成から詰んでしまう。だから△6九銀には▲6九金引で負けと読みを打ち切った。ところが、泉はその時に△3一金▲同と(▲同飛成はトン死する)としておいて、以下△6八馬▲同金△5八と(B図)で負けと観念していたと言う。
普通△6九銀とすれば、7八の金を取ることを考えて読む。だから▲6八金引△7八銀成▲同金で先手玉に詰みがないからと読みを打ち切ってしまう。誰だってそうであろう。
金を取らずに△3一金、非凡である。そして、さらに、△6八馬から△5八との読み。この順を感想戦で指摘された島は素直に「参りました」と言ったという。バクチだけでなく、将棋の才も素晴らしいことをお分かりいただけよう。
泉ちゃんよ。今まで通り、バクチを打ち、酒を飲み、将棋を勉強して行こうよ。遊びをやめてしまったら、先輩たちは悲しむよ。今の若手にはそれができる人間が少ないんだから。
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「関東若手棋士 地獄めぐり」。ものすごいタイトルだ。
同時期に、同様の趣旨で関西は神吉宏充四段(当時)が「関西棋士はどないじゃい」の連載を担当している。
恐ろしい企画があったものである。
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それにしても、野獣猛進流・泉正樹八段の知られざる少年時代のいたいけな様子。
泉八段は子供の頃に子役をやっており「ジャイアント・ロボ」などにも出演していたので、たしかにこのような少年であったとしても不思議ではないかもしれない。
ここに出てくる「片山」は、後の銀遊子こと片山良三奨励会員。
泉正樹八段とは同時期の奨励会入会。
室岡克彦七段はその7ヵ月後、大野八一雄七段は更にその2年後に奨励会に入会している。
15歳の泉正樹少年の変貌の仕方が昔の日活映画風で、とても心に迫ってくるものがある。
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泉正樹八段の青春時代の断章。