近代将棋2005年6月号、村山慈明四段(当時)の「定跡最前線特捜部」より。
先々月、角不成2回の歴史的妙手順で勝利を収めた行方七段が、研究会のVS. F九段(誰だかバレバレだがそこに味があるとF九段)戦でまた魅せてくれた。ただし今回は全くの序盤である。
下の図が問題の局面で、居飛車の手番である。ここまでは何の変哲もない銀冠対穴熊の序盤戦だ。
おそらくこの局面で次の一手問題を出せば、▲3七桂・▲9八香が3割ずつくらい、▲8五歩が2割、▲2四歩・▲3五歩の攻めが1割ずつ。と、まあだいたいこのくらいの割合で解答が来るだろう。
行方七段は香車をつまんだ。やっぱ現代式に穴熊だよな。と思われた方、残念でした。香車は9八を通り越して9七の地点に着手された。▲9七香!!である。僕が初めて見たのは2手進んで△7二金左▲9八玉の局面で、「何だ、この囲いは!!」と自分の将棋そっちのけで見入っていた。
感想戦で早速両先生に質問してみた。
「こんな囲いあるんですか?」
ここで返ってきたF九段の答えにまた驚いた。やや長いが、だいたい以下のような感じである。
「この囲いは昔からありますよ。名前もちゃんとついていて『干ぴょう囲い』って言うんですよ。狙いは相手の角のラインから玉を逃げているという意味だけど、米長玉と違って端攻めが残っているのが利点。それに昔は、米長玉は玉頭から攻められるから危険と見られていて、むしろこういう囲いの方が多かった」
まさかこんな珍形が昔指されていたなんて、思いもよらなかった。F九段の説明で囲いのメリット、狙いはだいたい汲み取ることができたが、僕が一つ合点がいかなかったことがある。この囲いの名称「干ぴょう囲い」だ。干ぴょう巻なら見たことがあるが、それはすでに原形を留めていないのでイメージが湧いてこない。
どなたか「干ぴょう囲い」の由来に関して詳しい方がいらっしゃったら教えてください。
(以下略)
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昨日に続いて、F九段、行方尚史七段(当時)、村山慈明四段(当時)の登場。
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干ぴょう囲いは、下の図のような囲いということになる。
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なぜ干ぴょう囲いという名前がついたのかはわからないが、干ぴょうは、ふくべ(ユウガオの実)を帯状にして乾燥させたもの。
ふくべは、洋梨とメロンとスイカを足して3で割ったような形をしている。
→ふくべの写真(ちびまるもが行く!)
干ぴょう囲いの7筋から9筋までを取り出してみると(部分図)、ふくべの形に見えないこともない。
リンゴに見える、メロンに見える、スイカに見える、いろいろなご意見はあろうが、この形を見て、ふくべを連想した棋士がいたのかもしれない。
日本の干ぴょうの90%以上を生産している栃木県出身の棋士は今まで一人もいないものの、干ぴょうはかなり以前は関西で栽培が盛んだったので、関西出身の棋士が名前を考え出した可能性もある。
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きっと、初めは「ふくべ囲い」あるいは「夕顔囲い」だったのだろう。
しかし、
「何なの、ふくべ囲いのふくべって?」
「ふくべって、干ぴょうの原料です」
「ああ、干ぴょうね」
数ヵ月後、
「この間、教えてもらった囲いを使ったら勝てたよ。あの囲い、優秀だねえ。何て言ったっけ、あの囲い?」
「ふくべ囲いです」
「ああ、干ぴょうのあれね、うん、なかなかいいよ」
また数週間後、
「ほら、あの干ぴょうの囲いでまた勝たせてもらったよ。今度何かご馳走しなきゃな」
「……」
のような流れがあって、「干ぴょう囲い」に収束していったとも考えられる。
どちらにしても、推測の域を出ないので、本当のところはわからない。
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加藤清正が築城した熊本城には、籠城の際に食物に困らないよう、干ぴょうが壁に埋め込まれていたと伝えられている。
子供の頃に大の野菜嫌いだった私も、トウモロコシとサツマイモと枝豆とかんぴょう(のり巻き)は大好きだった。
海苔と酢はそれぞれ独特の匂いがあるので子供の頃は苦手だったが、不思議とのり巻き(かんぴょう巻)はOKだった。
じっくり考えてみると、かんぴょうもなかなか不思議な食べ物だ。