羽生善治六冠(当時)のスーパー俗筋にしか見えなかった鮮やかな決め手

将棋世界1995年5月号、中野隆義さんの第20期棋王戦第3局〔森下卓八段-羽生善治棋王〕観戦記「真空の刃」より。

 定刻の5分前。駒の積み重なりをさらさらと解き、ピシリと羽生が所定の位置に王を据えるのを待って森下が5九に玉を発止と打ちつけた。

 王様の後は、左金右金、左銀右銀の順で香まで。次に角飛と二門の大砲を設置する。歩は、5筋を起点として左右左右と端まで並べていくのが「大橋流」と呼ばれる由緒ある初形の誕生のさせ方である。並べる動作は、玉側が”おゆき”のように、少し遅れてついて行くのが上品とされている。

 対局開始の儀式を執り行う両雄を盤側から眺めやると、一つ一つの駒を置いてゆくペースが森下の方が少し早い。これは、と思っていると、案の定森下は左桂の辺りで羽生に追いついていた。止まるのか、差し切るのかと目を凝らす中、森下の手は左香を並べる所で羽生の先をつっと走っていた。そこに一瞬のためらいがあったか、なんのこだわりも持たずにいたのか、記者の凡眼では見極められなかったが、強敵・羽生に対して森下が自らが持つリズムを保持して戦っていこうという態度は頼もしく感じられた。

(中略)

 1図▲3七銀までは、最近の大流行形。3七銀の形は加藤一二三九段が数十年来愛用しているものである。今ではその積極的な意味を持った手がほとんどの棋士の賛同を得ているということで、神武以来と言われた才の一部がここに証明されているのであった。

羽生森下1

1図以下の指し手
△8五歩▲6八角△4三金右▲7九玉△7三銀▲4六銀△7五歩▲同歩△同角▲5五歩△4五歩▲同銀△5五歩▲3五歩△同歩▲同角△4四歩▲3六銀△7四銀▲4六角△6四角▲7六歩△3一玉▲8八玉△2二玉▲3七桂(2図)

 1図。▲3七銀に対して△8五歩は以前からある手である。これまでは△6四角と早めに出て後手番らしく先手の攻めを牽制しようとする指し方がもっぱらで、△8五歩はしばらく鳴りを潜めていたのだが、後手番だからといっておとなしくしていたのでは幸せはやってこない、というのが今はやりの思想のようだ。

 王将戦第5局にて谷川が△8五歩を採用するのを見たある棋士が「この形は谷川が本気を出したときに使う戦法なんです」と言った。理由を聞けば「オレとやったときにも、そうやってきましたから」とのこと。手順がどうのこうのと教えてもらうより、この手の解説の方が記者には余程すっきりと納得できる。

羽生森下2

 ▲3七桂と跳ねた2図を見て、何かを感じませんか。

 数分間眺めて、何か変だなと引っかかるものがあれば相当な棋才を認めたい。もし、すぐさま分かるようなら、現在のプロ棋士達は貴方が棋士にならなかった分だけ幸運に恵まれたということになる。

 2図では、後手の方が手得をしているのである。ほとんど同形の両軍だが、飛車先の歩の形が違っている。

 控え室では、飛車先の歩が伸びている後手に不満なしと見ていた。

 しかし、森下は独自の大局観で2図を先手がやれる局面だと判定していた。

(中略)

羽生森下3

3図以下の指し手
▲5三歩△4六金▲同馬△6九飛成▲2五桂(4図)

 △6六飛と走って後手が好調かと見えるも、森下の▲5三歩が好手。対して△同銀や△同金とこの歩をはらうのは大変な利かされで、薄くなった3筋めがけて▲3三香と爆弾を落とされてひとたまりもない。また、△5一歩と受けるのもこれまた大変な利かされで、控え室の検討を一手に引き受ける青野照市九段のお言葉もない。オコトバモナイというのは、ようするに、問題になりませんよということである。

 とすると先手には次のと金製造が約束されているわけで、それを上回る攻めが要求される後手は手駒の少なさもあってかなり大変な局面になっているのである。

羽生森下4

4図以下の指し手
△8五歩▲7七銀△5四角(5図)

 森下の▲2五桂(4図)は、後手の第一本線の狙いである△8五歩▲7七銀△1九竜に、▲7八飛(竜取り)△3九竜▲5二歩成の逆ねじを食わせようというものだ。こんな切羽詰まった最終盤で相手の最強手段を殺しながら敵玉に迫る手があれば概ね勝ちとしたものである。

 本譜、△8五歩▲7七銀と進む盤上を目の前にして森下は、手応えありの感触を心に感じていたに違いない。

 △5四角は、それをモニター画面で目撃した控え室も「はああー」と首を傾げた一手であった。

羽生森下5

5図以下の指し手
▲7六歩△3六角▲同馬△1九竜▲7八飛△8六香▲同銀△同歩▲同金△6七銀▲4六馬(6図)

「一体何をやってくるんだろうと思いましたよ」と局後の森下。それはそうだ。△8七角成の筋は簡単に受かるから5四の角は瞬時に打ち損になる運命にある。

 1分の考慮で、当然と見える▲7六歩は打たれた。羽生はどうするんだろうと訝る控え室同様、森下も次の相手の手が分からなかったと言う。さもあろう。つと、羽生の手が伸びて△3六角だが、こんな遊び形の銀を取るなどというのは先手にとって有り難いような一手である。

 記者はこの瞬間、羽生変調!森下勝ちを思ったのだが、驚いたことに事実はまったく逆であったのだった。

羽生森下6

6図以下の指し手
△7八銀成▲同玉△7七歩▲同桂△9九竜▲3三香△8八飛▲6七玉△6九竜▲6八歩△同飛成▲同馬△6六香(投了図) まで、106手で羽生棋王の勝ち。

 △7八銀成以下、先手の玉はあっと言う間に寄ってしまった。△8八飛からは即詰である。

 恐ろしいことだ。△5四角のようなスーパー俗筋が実は鮮やかな決め手であったという将棋を記者は、初めて見た。また、決め手を見た瞬間、それが決め手どころか敗着にすらなりかねない凡手ではないかと感じたことも。

 敵の目の前にありながら、それを凶器と悟らせない刃を羽生は持っている。

「銀を取られて負けと分かっていれば当然(7六)歩と受けずに▲5二歩成を考えていますよ」と森下。

 ▲5二歩成以下△8七角成▲同玉△8九竜▲7六玉で先手玉は容易には寄らず、大変な勝負将棋である。

 また、△5四角自体を警戒していれば▲2五桂では▲1八飛という頑張りも考えられるところであった。しかし、それは通常の将棋感覚ではけっして乗ることのできない路線であろう。

 打ち上げの席では、当日の将棋のことに自分からは極力触れないようにしている記者であったが、フト気が付くと懐から棋譜を取り出して眺めていた。数メートルの至近距離に両対局者はいることを頭のどこかで承知してはいたが、それでもなお、たまらず棋譜を見つめ、隣席の写真家・中野英伴氏に向かって呻いたのだった。

「あの角打ちは読めるというたぐいの手ではありません。その発見に羽生が要した時間は△8五歩の時の僅か13分です。読んだのではなくて、まるでその手を既に知っていたかのような気がします。羽生を倒すのは本当に大変です」

羽生森下7

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羽生善治六冠(当時)の△5四角(5図)。

▲7六歩と受けさせてから角を切りつつ3六の銀を取って先手の馬の筋を変え、安心して△1九竜と香を取る。

先手の馬の筋がずれたので、先手が飛車を逃げた時に竜取りにならず、すぐに△8六香と攻撃を続けられるのが大きい。

目の前で賑やかなお祭りをやっているのに、山を2つ越した湿原に倒れている木の枝を取りに出かけるような、非常に不思議な感じのする一手。

私など、一生かかっても考え出せそうにない手だ。

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「この形は谷川が本気を出したときに使う戦法なんです」~「オレとやったときにも、そうやってきましたから」がワイルドでたまらなくいい。

誰が言ったのか、今度、中野さんに聞いてみよう。

「オコトバモナイ」も一度使ってみたい言葉だ。