花村元司九段の侠気

先ほどの記事「バナナから始まった友情」に出てくる故・池田修一七段の物語。

若い頃の中原誠十六世名人が登場するのはまだ先(明後日)だが、昔の話やエピソードがとても面白く興味深い。

将棋世界1991年7月号、池田修一六段(当時)の「師匠と弟子の物語 花村と私(上)」より。

「よろしくお願いします…」。

 送ってきた母は、かぼそい声をのこすや走り去っていった。その家は、これよりさき不明の世界にとびこんだ師匠花村元司の棲む家で、いまから30年も前の、15の春たけなわのころであった。

 翌朝、目を覚ますとホウキ、それにハタキが。ガキ大将で漁師街に育った私は、ホウキやハタキといえば、チャンバラや喧嘩の道具でしかなかった。さて、どうしたものか?しばし、立すくんでいると「ハタキはこうやってかけるもんよ」。花村夫人の母が、新聞紙に水を浸し、それを要所、要所にちぎり捨て、ぱた、ぱたとハタキをかけてみせた。年季の入った主婦の芸。当時は、まだ電気掃除機もそう出回っていなかった時世であったか、一般家庭ではこうやって掃除を。内弟子になって1日目の初めに正しいハタキのかけかたを教わったと同時に、こりゃいささか勝手の違うところへきたと云う印象が強く残った。

 なにせ、そのころの花村家には、次の人達が棲んでいた。いの一番にハタキのかけかたを教えてくれた花村夫人の母と父。夫人の兄夫婦一家4人に、同じく寿司屋へ勤めている弟と大学生の弟。加えて、花村とは古くからの腐れ縁とも云うべきか竹中某。伊勢湾台風で被害に…と云う松谷老。それに居候であるかないかはさだかではないが、白髪の紳士と云ったかんじの川瀬某。花村は妻と一人娘(香澄)の他に、大なり小なり皆をまとめて面倒みる図であった。総勢14人。そこへ、居候がまた一人。敷地は50坪ほどか。さすがに敷地いっぱい近く建てられた総2階の家も、そう広くはかんじられなかった。

 当時の花村は不惑を2、3超え、やや翳りが…、といった現象をはねのけ、A級へ帰り咲き、意気のあがっているころであった。

 ふだんの花村は、雨でも降らぬかぎりは家に居ない。対局もあれば、競輪に行って稽古先へ。さもなくば東海3県方面か、他の地方に…。そもそも浜松出身で贔屓筋は東海道筋が多かったし、事実、”東海の鬼”とした異名もそこから発した異名であった。が、これらの仕事むきがないときは、朝から近所の喫茶店へ競輪新聞かた手に竹中某と。やがて適当な時間の頃合を見計らって競輪場へ愉しみに?で、夕方帰ってきて手拭いを頭に銭湯へ。ところで花村の頭は、太平洋戦争で南方へ招集されたさい、デング熱にやられたとかで頭髪が抜け、そこへ剃刀をあて、さらに奇麗な坊さんの観に仕上げていた。その坊主頭に神通力が潜んでいるかのように映ったが、後年考えるに「しょんない」と頭を撫でるポーズの裏で、一瞬して光る眼の配りこそ、それ…とかんじるは、大人になってからの話であった。

 とりあえず私は所在なく明け暮れ、要領が悪いままの内弟子生活を送っていた。

 時にはこんなこともあった。

 雑巾がけを終え、朝食を済まし、ホッと一息ついていると、玄関さきにあって突如として「先生いるかい」と、かんだかい声がした。

 立ちあがろうとした私に、新聞に目を通していた花村夫人の父が眼だけをあげ、居ないと云っておきな…と云われ、額面通りの言葉を用意して玄関にはしり、その旨を伝えた。

 男は、一見テキヤ風で仁王のように立ち、私を逆に胡散臭そうな小僧…と云った眼つきで睨み付けていた。途端、シマッタと思った。なにせ鼻村の草履、下駄が並べてあった。

 当時の花村は和服一辺倒で、競輪から帰ってきて着流しで銭湯へ…の図など、住んでいる下町によく似合っていた。住まいは荒川区日暮里。と、云うより京成”新三河島駅”で下車。「冠新道」と云った方が早い言い回しであった。

 で、さきほどの男は?花村は2階にいたが、意外なほどのおとなしさで帰って行った。やがて花村はでかけ、まだ帰っていない夕方に、彼の男の逆襲があった。

「今朝がたは、よくも小僧に門前払いを…」と、一杯きこしめて喚いてきているのであった。対し、居留守の知恵を授けた主は、「君は出てくるな」と云ったのはいいが、男に、いつまでこんなことをやっているんだ。真面目に働いたらどうだ…まがいの正論一点張りで、益々男を激昂に追いやり、最後はパトカーを呼ぼうか…でようやく帰って行った。

 いまは不可能だが、花村は25歳で付け出し五段の特異な経歴に示されるよう。全国の賭け将棋指し、将棋浪人連中に憧れと尊敬の目でみられ、ともすれば勝ってに頭目視し、行けばなんとかなるとか?草履を脱ぐ観で寄る人も結構あった。又、肚のなかはどうあろうと人に対して嫌な顔をみせる花村ではなかった。つまり今朝の男も顔を合わすと電車賃か?煙草銭か?無心であったことは容易に想像がついた。そのころは自宅の一部を後援会の道場にしていたが。が、棋士の家にしては異色。こうした世界をみてか”任侠の花村”。若い時分に名古屋方面で親分を張ったことも…と伝えきく。戦前の棋士になる前の隠された一面を垣間見た思いがした。

 が、花村は天成あかるく、人を逸らさずと云った資質が具わっていた。それに後天的だが、手入れの行きとどいた坊主頭がトレードマークで、ひたいの真ん中には仏さまのように人目を惹く大きな”エボ”が。そして早口のせいか?よく吃る癖があり、屈託のない雰囲気のなかに、どんな試練をみてきたか…。けっして笑わぬ例の目が顔全体をひきしめ、少年時の感じではずいぶん大柄と映ったが、あとでおもうにそうでもなく中肉中背であった。

(中略)

 なにせ、とりあえず15人からの生活が花村の一局、一局に直接、間接に響いていた。

 当時は池田内閣が所得倍増をうちあげ、それに向かって邁進中であり、庶民的にはまだまだ貧しさがそこら中に転がっている時代であった。御多分に洩れず将棋界も…。でなくても世間の歩みから一歩ずれた観のある団体であった。が、花村はA級の位置に加え、得意な経歴、人柄等をして花型棋士の一人で連盟や後援者筋と合わせ収入は結構?と思われたが、そのころを振り返り夫人が云う。「私も勤めていたのよ…」と。現在の花型棋士と比べたら隔世の感であるが、それでも花村はA級の花形であることを思えば、なにゆえに夫人が―。

 しかし、当時の世相をして15人もの大世帯を将棋で支えて行くには大変であったか…。加えて、酒を呑まぬかわりに競輪。博才も天性のもので麻雀、花札、賭け碁等に興じていれば、かつては本職となった将棋よりうえ?かの伝説もあり、小遣いが増えこそすれ、減りはしない観であったが、わざわざ小遣いを減らす競輪に。競輪は終生変わらぬ道楽であったが、内弟子時代は儲かれば道場を守っている松谷某や、通称”軍帥”の竹中某に小遣い銭を…で、しょせん家計のたしになる金とは程遠そうであった。花村家の台所事情は、むろん少年だった私の知るよしも…。しかし、とうに仕送りが途絶えていることさえも知らなかった。おそらく母に送られてきたっきり…であったのでは。さきに行ってもさまざまな場面と折衝を。だが、訊き出せない質問であったし、花村自身そんな話に触れたがる性じゃなかった。が、その話を母に訊いたときは、だまって横をむいていた。

 そうこうしている間に、現在連盟へ勤めている関口勝雄五段が長野の高校を卒業し、内弟子にやってきて、花村家は16人。もうじき野球をやれそうな人数になり、かれこれ1年が過ぎようとしていた。花村の負担がまた重くなったわけだが、相変わらず頓着なしで対局、後援者巡り、さもなくば競輪。と、雨でも降らないかぎり家には?否。雨が降っても終日じっと家に居た姿の記憶はなかった。が、家に居るときは例の缶入りピースを買ってくるぐらいしか…の用を云いつけなかったが、やはりなんとなく窮屈で呼ばれるとふたつ返事で…。しかし、その他の場合は横着をきめこみ、後から入ってきた関口さんのひきあいに出されていた。現在も変わらずであるが、関口さんは生真面目ななかにも、当時から飄々としたユーモアのある青年で、ひきあいに出される方こそいい迷惑であった。

 同じ屋根の下で大家族のそれぞれが、それぞれの葛藤をくりかえしながら1年が去ろうとしていた。私は5級で入ったが一向に上がらない級。大家族のなかで雑巾がけの日々。はたしてこれらの世界はいつまで…と、子供心に不安と焦りを感じていた。

 だが、花村は次の一手を用意していた。中野に在った連盟が、現在の千駄ヶ谷に引っ越すと云う。で”塾生”に。なるほど名案であった。とりあえず居候が一人減り、少しでも身軽になれるし、だいいち私のためになることであった。これで当面の居、食、それに多少の小遣いも…。と、するより、諸先輩のしわぶきにじかに触れる機会が多く、棋譜なども即、目に入る日常生活と一変し、タガが外れたようにもとの腕白に戻って行った。そこらも花村の読み筋で、次の対局のおり、一枚の色紙を書いて持ってきてくれた。

 その色紙には私への為書きがしてあり、「正直」「親切」の言葉が認めてあり、師花村元司と署名があった。”東海の鬼”の冠頭印などを作り、色紙に「平然」「果断」「決断」「共栄」とか揮毫しだすのはまだ後年のことで、この時点における花村は、筆を持つのはおよそ苦手な分野で、「よせやい…」の話であったし、がんらい達筆と云える質ではなかった。が、達筆とはほど遠い気がした字であったけれど、几帳面な真面目さが…。それに、これからの新しい生活を「かく心得て…」。なによりも、その観が滲み出ている字であり言葉であった。「正直」「親切」。ともあれ、花村の色紙を部屋に掲げ、塾生生活が始まって行った。

(つづく)

——–

故・池田修一七段は1945年青森県八戸市の生まれ。花村元司九段の最初の弟子であり、2000年に引退、2006年に亡くなられている。

青森県の将棋普及に非常に大きな貢献をしている。

1990年代後半には、将棋世界で「私の愛読書」という連載エッセイを執筆していたほどの読書家だった。

——–

家族、親戚、食客を含め15人の人を食べさせるというのは並大抵なことではない。

社員7~8人の芸能プロダクションを1人のタレントだけでやっていくようなものかもしれない。

この「師匠と弟子の物語 花村と私」では、花村元司九段や升田幸三実力制第四代名人などの魅力が存分に語られている。

このシリーズは土曜までの4回続きます。

 

バナナから始まった友情

近代将棋1988年6月号、湯川博士さんの書評エッセー「不滅の名勝負100」より。

 将棋ファンが将棋界をながめる時、どうしても自分の生き方を重ねて見ることになる。そういう意味からいうと、今中年のファンは重ねるべき対象が少なくて可哀想である。

 10代20代の若者に制圧された将棋界で、わずかに気を吐いているのは、中原名人、真部新八段、B2へ昇級の滝六段くらいであろうか。真部、滝のご両人は、長い中だるみのあとのランクアップで、これはたいへんな偉業である。

 中年になってランクをひとつアップする―これはいかに難しいか。どんな職業に当てはめたって、中年諸氏には胸に突き当たる所があろうというもの。

 将棋の本を見る時も自分と重なり合う部分が多いほど、楽しさも倍増する。

『不滅の名勝負100』は、大人の将棋ファンがジックリとつきあえるつくりになっている。

 古今の名棋士が、いろいろな因縁で激突するさまや、悲運強運が織り成すドラマを棋譜とともにギッシリと詰め込んである。それからまた、案外知られていないエピソードを見つける楽しみもある。

 昭和15年の春。第2期名人戦が木村-土居の対戦で幕開けしたが、その時に誰も予想だにしないハプニングが起きた。

 名人戦第1局の先後について、主催紙大阪毎日から、「名人に敬意を表して挑戦者先番で指して欲しい」という申し入れがあった。

 名人戦の運営にたずさわる将棋大成会幹事長の金子金五郎もこの案に賛成だった。というのも、挑戦者土居にとって先番は有利だし金子は土居の弟子なのだ。

 ところが思わぬ人物が異を唱えた。

 なんと当の土居市太郎である。

「勝負は気合いのもんじゃ。公平な振り駒にしてくれ」と一歩も退かぬ構え。ついにこの主張が通って、以来タイトル戦はすべて振り駒になったという。

 ルールは人がつくる見本である。

 昭和29年の名人戦では、時間切れ負けという珍事が発生。起こしたのは升田幸三挑戦者。局面は終盤で升田有利。

 記録係が「1、2、3……10」といった瞬間、大山名人はアッといって記録係を見る。つられて升田も見て「時間切れたか」と聞いた。

 記録係が「はい、少し」と答えるや、「それじゃ負けだ」と升田はさらりと駒を投げてしまった。

 切れたか、と聞かれて記録係が「はい、少し」という所はなんとも可笑しい。記録係としては、切れたかなどと聞かないで欲しい。黙って指し続けて欲しかったろう。

 升田には史上初の三冠王や名人に香落ちで勝つなど天才的な面もあるが、大ポカでタイトルを失ったり、事件を起こして出場停止になるなど軽率な面もある。どちらにしても動きが派手で大向うを喜ばす棋士である。

 升田より小つぶだが、世間をあっといわせたのが、森雞二の剃髪事件だ。

 昭和53年、名人戦が朝日から毎日に移ってすぐの記念すべき対局の第1局目。観戦記者に作家の山口瞳氏を迎えての大一番だ。

 当日朝定刻に入ってきた森挑戦者は修行僧のごとく青々と頭を剃り上げていた。立会人の大山十五世名人が異様なムードを柔らげようと、「坊主が二人になった」とジョークをいい、花村九段も「坊主にするなら、私に仁義を切ってくれなきゃ困るね」と笑わせるが、中原名人と森挑戦者の表情はこわばったままだった。

 この時の観戦記を、山口瞳氏は二通り書き、「紙面に合うほうを選んで欲しい」と言ったそうな。おそらく硬軟二本書かれたのだろうが、直木賞作家がそこまで気を入れて書いてくれたというのも、剃髪事件があったればこそと、思う。

 昭和31年5月仙台。

 塩釜(宮城)の天才少年中原誠(8歳)と八戸(青森)の天才少年池田修一(11歳)の対戦があった。大勢の将棋ファンが見守る中での大熱戦の結果、池田少年が勝った。

 対局後外へ出た中原少年は、池田少年が買ってくれたバナナを食べた。後の中原名人は、「その時のバナナの味は今でも覚えている」と語る。

 昭和31年のバナナは超高級品で、ふつうの家庭の子供は遠足か運動会でしか食べられない。11歳の少年が8歳の少年に買い与えるというのも、相当凄いことだ。今ならば金持ちの子供がマスクメロンをおごるような感じだろう。

 このエピソードを読んだ時、「あっ」と声が出そうになった。それはあるエピソードと火花を散らして結びついたからである。

 池田修一少年は15歳でプロ入りし順調に昇級して行ったが、三段に昇った時突然病魔に襲われた。当時結核は絶対安静しか手がなく、池田三段は涙を飲んで故郷に帰り静養をすることになった。一緒に奨励会に入った仲間はどんどん棋士になって上がってゆく。自分はいつ退院できるかわからないベッドの住人。

 その焦燥感たるや、たまらないものがあったろう。

 暗い青森のベッド生活で、唯一の光が仲間だった棋士からの定期便だった。その励ましに力を得てか、何年か後に棋界に復帰し念願の棋士にもなれたのである。

 この定期便の主の名前と、棋士池田修一の結びつきがどうもわからないままであったが、これが氷解した。

 このバナナのエピソードは、「中原の自然流」(東京書店)という古い本に出ていたのを、担当執筆者の横田氏がすくい上げてこのページに使ったものである。

『不滅の……』は20数人の執筆者が出版社から分担を決められ資料を与えられて書いたものである。(かくいう私もその一人)しかし実際の執筆に当たっては、各自が各自の資料を豊富に駆使して書いている。この貴重なエピソードもそうした努力のひとつである。

 本書は、20数人のライターが、手に入る限りの資料、頭に詰まっている沢山のネタを駆使した文章で出来上がっている。

——–

たしかに、昔はバナナは高級果物の雰囲気があった。

調べてみると、1963年のバナナの輸入自由化が実施されるまでは、バナナ1本が現在の貨幣価値に換算して1,000円もしていたと言われている。

1950年前後のデータだが、コーヒーが20円の時代にバナナ1本が40~50円。昔ながらの喫茶店のコーヒーの値段の倍以上していたということは、現在に置き直して考えてみれば、たしかに1,000円を越した金額だったと言える。

バナナの自由化後は、現在に至るまでほとんど値段が変わっていない。

総務省統計局家計調査年報によると、バナナの1kg当たり単価は1960年で218円、2014年が245円。

ちなみに、りんごは1960年の1kg当たり単価が77円で、2014年は405円、みかんは1960年が100円で2014年が347円。

バナナが卵とともに物価の優等生と言われる所以だ。

——–

そういう意味では、昔はパイナップルも高級感溢れる果物だった。

目の前に現れるパイナップルはいつも缶詰ばかり。パイナップル本体が家庭でも一般的になるのは1970年代になってからだった。

——–

映画「男はつらいよ」シリーズで車寅次郎がバナナの叩き売りをやるシーンガ出てくるが、バナナの叩き売りは、傷がついたものや、痛む寸前のものが売り物となっていたという。

バナナが高級品であった時代だからこそ成り立つ芸で、バナナの安い今の時代には難しい販売方法だ。

——–

元近代将棋編集長の中野隆義さんによると、大山康晴十五世名人は、熟しすぎて黒くなったバナナが大好物だったという。

また、加藤一二三九段は、対局中に十数本のバナナを房からもがずに一気に食べたという伝説を持つ。

バナナ自由化以前の時代から活躍していた棋士は、それぞれのバナナへ対する思いを抱いているのかもしれない。

——–

池田修一少年と中原誠少年の話は、また別に紹介したい。