近代将棋1988年2月号、団鬼六さんのアマプロ勝ち抜き戦〔先崎学四段-西山実アマ〕観戦記「秀才は天才に勝てず」より。
先崎四段は私の家でこれまで本誌のアマプロ戦、3局を戦いました。私の家が彼にとって方角がいいのか、彼はそのいずれにも快勝し、そして、今回、西山実君と対戦する事になったのです。
西山君は月に何度か私のヘボ将棋のコーチをつとめてくれているのですが、18になったばかりの少年で、しかし、アマ名人戦の神奈川県代表になった事もあり、勿論、高校将棋選手権でも神奈川の代表、県最強戦では優勝したというのですから大したものです。少年だとはいえ、近将のアマプロ戦に登場しても決しておかしくないアマ強豪だと私は思いました。
それで、この所、ずっと人相のよくないアマ強豪がつづいているようだからたまには美少年を起用してみませんか、と、森編集長に西山君を推薦したわけです。
西山君は堀の深い、メランコリックな顔立ちの典型的な美少年で、うちのカミさんなんかは将棋なんかにあんなに凝らずテレビタレントになればいいのに、と洩らした事があります。棋士の骨相というのは時々、うちに遊びに来る碁の高木九段みたいなのではないとうちのカミさんは納得出来ないらしい。そういえば一度、拙宅に女流プロの林葉直子さんに来てもらって一局、指南してもらった事があるのですが、うちのカミさんはテレビ女優が遊びに来て私と将棋を指し始めたと思ったようです。女流棋士というとうちのカミさんなんかは社会党の土井委員長みたいなタイプがイメージとして浮かび上がるようです。
それはとにかく、西山君の登板はきまりましたが、その代わりにこの観戦記を押しつけられたわけで、どうも、この観戦記というのは私は苦手で、というのは私のようなヘボが一局の将棋を分析して、ここでこう指せば有利であったとか、不利になったとか、説明するのは照れちゃうし、例によってごまかしの観戦記で御免蒙らせて頂きます。
観戦記は作家が書く方が適当などという人もいますが、それは嘘で、ものかきというのは一局の将棋をものとして見るよりも心の風景で対処したがるというか、つまり要領のいいごまかしの術を心得ているという事で、そうなると棋譜が粗悪であろうが、上等であろうが、そんな事は問題ではなくなってしまう。まあ、そこがミソだという事になるのでしょう。
先崎学四段17才、西山実18才。
この若い二人、というよりは少年といった方がいい両人と私は対局が始まる前に30分ばかり雑談をしたのですが、彼等が指した将棋よりもその雑談の方が実は面白く感じました。ま、その事をくわしく書くのはやめますが、両者の性格は対照的で、これが当節の少年気質を代表するものではないかと興味深く感じました。
西山君は万事、控え目で、口数が少なく、華奢で繊細な身体つきだから、何となく少女的になよなよした所があり、目上の人にはちゃんと敬語を使用して育ちの良さを感じさせるが、こっちが話しかけるまで自分の発言をさし控えるという謙虚さが何だかちと若人らしい溌剌さに欠けている感じがするのです。
(中略)
それとは対照的なのが、先崎四段で、これはどう見ても17才の少年とは思われぬふてぶてしさが感じられます。こまっしゃくれている、と感じるのも彼がまだ17才という少年期にあるからなのでしょうが、そんなのは対局態度などによく現れていて、片肘を脇息に乗せ、身体を斜めにくずし、片手に持った扇子をパチリ、パチリと指先を使ってかき鳴らすなど、如何にも場馴れしたベテラン棋士の風格を感じさせるのです。さすがに容姿だけは少年期のあどけなさはごまかせず、態度と風貌のバランスが全くとれていない感じなのですが、それでもうちのお手伝いさんが対局中、お茶とお菓子をお出しすると、彼は軽く会釈したまではよかったが、観戦している人々の方を扇で指し、皆様にもお茶とお菓子をお出しして下さい、と指示したそうです。
そんな事はいわれなくたってわかっているのですが、とにかくお手伝いさんは面食らったそうで、それにしても17才の少年棋士が対局中、観戦者にそんなに気くばりを示すなど、これはもう将来、大物間違いなし、と台所でお手伝いさんは笑いながら語っていました。
私が盤側に観戦に行くと、西山君の方は地震が起こっても気がつくまいと思われる位、熱心に読み続けているのですが、先崎四段はよき話し相手が現れたといった風に、林葉直子ちゃんの小説が今度、映画化されるのですよ、その事、知ってますか、といった風に盛んにこっちに語りかけてくるのです。ペラペラしゃべりかけてくるのは自分の手番になっている時で、西山君の手番の時は彼の思考をさまたけないようにおしゃべりは差し控えるといった風にその点の気くばりはちゃんといきとどいています。
(中略)
ところが先崎四段の場合は既成の事実を承認し、それに自分を同感させようという感覚がないわけで、従って刺激や変化に対して不安感が生じるという事もないわけです。
天野宗歩の棋譜をまだ並べた事がないといった西山君に対して私は、将棋を指す人間が天野宗歩の棋譜を見た事ないとはけしからん、と以前、説教したのですが、すると彼はあちこちかけ回って宗歩の棋譜を集め、研究したわけで、それを雑談の場で先崎四段に彼が語ると、この少年四段はそんな努力が将棋の強さにはつながらない、と、まあ、何とも情趣のない結論を口にするわけです。先崎四段に、そこで問題です、といった調子で、木見金治郎やら大崎熊雄やら、神田辰之助やら、そんな昔の棋士、知っとるかと聞くと、名前は聞いたけれど興味はない、などというし、私が将棋覚えたての頃、大橋柳雪の棋譜を並べて感動したというと、一度、僕も柳雪の棋譜を見た事があるけれど、ありゃ、そんなに将棋強くないですよ、と、ケラケラ笑いながらいうわけで、何というか、先駆者に対する思いやりの念がないわけです。しかし、プロセスを通り越して結論だけいえばたしかに彼のいう通りであって、既成の概念に同感しない所は老成しているともいえるわけですが、17才にして、兼好法師みたいによく覚り切れたものだとその点、感心させられます。先崎四段が兼好法師でない所はスタンダールみたいに自分の才能に絶対、自信を持っている事でしょう。何故、自分に自信を持つかというと、それは彼は将棋の天才だから仕方のない事で、羽生にしろ、村山にしろ、森内にしろ、こんなの新々人類というのかも知れないけれど、何だか、最近、クモの子を散らすようにこの種の十代の天才が飛び出して来たような気がするのです。そして、これらの連中は絶対に俺は名人になる、とまで自信があるかどうかは知らないけれど、その場限りの小さな幸せだけを狙ってこせこせ立ち廻る人間でない事はたしかです。
(中略)
打ち上げの席で先崎四段は私に、いや、僕の完敗で、拾わせてもらったようなものです、というのです。この言葉は謙遜なのか、皮肉なのか、ちょっとわけがわからない。以前、私の将棋の師匠であった富岡英作君は四段当時、アマプロ戦に勝った彼に感想を求めるとアマの相手には悪いけど平手の手合いじゃありませんね、と、何とも憎たらしい事をいいましたが、新々人類はそれより辛辣になってきたのかも知れません。何やら複雑な構造も含まれているようです。
打ち上げの席で、私は永井社長やら作家の山村さんやら女流棋士の谷川治恵さんやらとワイワイガヤガヤ将棋の話をくり返して酒を飲んでいましたが、先崎四段はほとんど聞き役に廻って口をはさまず鷹揚にうなづいてばかりでチョコンと坐ってました。しかし、山村さんがお土産に持参した高級ブランデーの口をあけ始めると、先崎四段は、明日は対局があるといってアルコール類には手を出さなかったのに、また、こっちも17才だから当然だと思っていたのに、彼は新しいコップを手にしてついと立ち上がり、私の前にやって来ました。そして、僕にも一杯下さい、といって、彼は私の鼻先にぬーとコップを突き出したのです。こんな所などは全く子供に見えました。
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この日は、団鬼六さんの家で作家の山村正夫さんと谷川治恵女流二段(当時)の対局も同時に行われている。
鼻血が出そうになるほど賑やかな団鬼六邸の一日だ。
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大橋柳雪は、「近代将棋の祖」と言われ家元制で最強の名人とされる大橋宗英(九世名人)の晩年の弟子で、「近代将棋の父」と呼ばれる天野宗歩の実質上の師匠。その実力は非常に高く評価されている。
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大橋宗英の嫡子の七代大橋宗与は棋才には恵まれなかったが、大橋宗英の著書の出版事業や将棋の普及に尽力した。
そして大橋宗与は、大橋宗英の死後の1818年、柳雪を養子として迎え、1828年に大橋宗英を襲位させる。
いずれは八段として大橋分家八代目を継承すると思われた柳雪だったが、2年後の1830年、突如として廃嫡となり野に下ることになる。
理由は病がちであった為とされているが、「将棋営中日記」によると、重度の梅毒で聴力を失っていたという。
大橋柳雪は将棋家を去ってからは京都に住まい、そして天野留次郎(天野宗歩)と出会う。
大橋柳雪は45歳の若さで亡くなったと伝えられるが、棋譜以外には文献があまり残されていないため、その生涯は謎に満ちている。
大橋宗英-大橋柳雪-天野宗歩のラインが、将棋の戦略面、戦術面を大きく発展させたわけで、私もいつか、この3人の棋譜を並べてみたいと思っている。