将棋世界1983年9月号、「女流棋士対各界将棋天狗 お手並み拝見」〔中瀬奈津子女流初段VS荒木一郎さん〕。解説:森雞二八段(当時)、記:たつの香太さん。
荒木一郎さん―。
歌手兼、作曲家兼、俳優兼、プロデューサー。いわば芸能界のオールラウンドプレーヤーといったところである。
30歳以上の音楽ファンなら”空に星があるように”や”いとしのマックス”とかのヒット曲を想い出すだろう。今はやりの、シンガーソングライターの走りの人がこの人だった。
近頃では歌よりも、俳優とかプロデュースで活躍。それに最近”作家”という肩書も加わっているから驚く。推理小説とエッセイ集を出し、近々、直木賞をねらった大作を発表するそうだ。
ドラム、トランペットはプロ級。それに趣味のカードマジックの腕はひょっとしたら日本一。とにかく大変な多才という他はない。
その荒木さんが、実は大の将棋ファンなのである。棋歴は10年以上。家には将棋雑誌と立派な盤駒がズラリ。駒台にチェスクロックまでちゃんと揃えてるという凝りようだ。実力のほうも、荒木さんとは3年来の親友づきあいの伊藤果五段が「立派なアマ四段」と保証するのだから間違いない。
しかもこの荒木さん、自宅を開放して将棋教室を開いているのである。といっても、伊藤五段が”果会”という将棋教室を荒木さんのお宅の部屋を借りて開いているのだが、そのために荒木邸は10畳ほどの部屋が、将棋専用ルームとなっているのである。荒木さんが並の将棋ファンではないことがお分かりいただけるだろう。
さて、その荒木さんを迎え撃つ、我が女流棋士は、ナッちゃんこと中瀬奈津子女流初段である。ご存知、NHK将棋講座で2年連続アシスタントをつとめるアイドル棋士。
以前本誌の”女流棋士に挑戦”という企画で一般ファンの挑戦者を募ったところ、”中瀬初段と対戦希望”というハガキが圧倒的に多かったそうだ。やはり親しみやすさという点では抜群なのだろう。
(中略)
この対局は、東京、世田谷にある、荒木さんのお宅にお邪魔して行われた。対局場はいうまでもなく、例の将棋ルームである。
荒木一郎さんといえば、ちょっとニヒルでクールなイメージがあったが、実際は、気さくでなかなか暖かい感じの方である。最初大きな居間に通された時、4人の小さなお子さんたちと、無数の猫が遊んでいて少し驚いたけれど、これは皆、荒木さんの家族なのだそうだ。ナッちゃんはすぐ、ネコに囲まれてゴキゲンであった。
さて、お願いしますと対局が開始されれば中瀬さんは4手目に△3五歩の石田流である。
これぞ中瀬さん十八番の戦法。この石田流で元アマ名人の小池重明さんや櫛田陽一君を破ったこともあるのである。
しかし、荒木さんも彼女の石田流は予期していて、みっちり対策を練ってきたらしい。本譜▲5六歩で角道を止めさせてから、▲3八金と右金を繰り出したのがそれである。
右金を2筋から前線に繰り出すのは”棒金戦法”と呼ばれ、石田流に対して使われる少々特殊な戦法である。解説の森八段は「棒金は力がなければ指せない戦法。うまくいけば威力を発揮するが、失敗するとひどい目にあうこともある。作戦的には難しい指し方ですよ」という。
その難しい戦法を、荒木さんどう指しこなすか。
(中略)
2図以下の指し手
▲3六歩△同歩▲3八飛△4五歩▲3三角成△同桂▲6六角△3二金▲3六飛(3図)2図から仕掛けるとすれば▲3六歩。ここにすぐ目がいくようなら有段者である。
もっとも▲5七銀右と一旦形を整えておくのもいい手だし、そのほうが手堅いという意味もある。しかし荒木さんは予定の行動だったのだろう。ほとんどノータイムで▲3六歩と仕掛けた。一気に攻めつぶしてしまおうというのである。
▲3六歩△同歩と突き捨ててから▲3八飛と回るのがスピーディーな攻め方。単に▲3八飛と回るのに比べて飛車の動きが軽い。
中瀬さんの△4五歩は決戦策だが、▲3三角成と角交換してから▲6六角と打ったのが荒木さんの実力を示した好手順。ここで▲6六角を打たずに▲3六飛と飛び出るのは△3五歩▲同金△同銀▲同飛に△4四角と打たれて、いっぺんに先手の負けになる。
△3二金と受けさせてから▲3六飛とさばいた3図は明らかに先手の攻めが成功した形である。
3図以下の指し手
△3五歩▲同金△同銀▲同飛△4六歩▲3三角成△同金▲同飛成△6二飛(4図)思わぬ苦戦に中瀬さんも長考の連続である。
△3五歩では△5二角▲3五歩△4三銀と辛抱しておけば後手もまだがんばれるというのが森八段の意見だが、こういうのは頭では分かっていてもちょっと指しにくい順だろう。
しかし△3五歩からの金銀交換、そして△4六歩にあっさり▲3三角成△同金▲同飛成と二枚換えで飛車を成り込んでは荒木さん大優勢である。
中瀬さん苦吟の長考10分で△6二飛と逃げた4図、これが問題の局面である。ここでの最善手が皆さんお分かりになるだろうか。
4図以下の指し手
▲4四銀△1五角▲3一竜△4八角成▲5五桂△4七歩成(5図)4図の局面、先手は角と銀桂の二枚換えの上に先手で飛車を成り込んだのだから優勢は明らかである。しかし、ではどう勝つかとなると意外に難しい面がある。
ここから荒木さんは無念の逆転負けを喫してしまうのであるが、局後、観戦していた伊藤五段から正解を指摘された荒木さん”4図は先手優勢だが勝てない局面”という不思議な結論を出した。
つまり、荒木さんとしては速攻で優勢になったのだから、このまま攻め続けたい。ところが、4図から攻める順では先手がなかなか勝てないのである。
例えば▲3一竜と突っ込めば△2二角が詰めろ竜取り。▲5三竜は△2六角▲6二竜△同金。▲5五歩は筋のよさそうな手だが、△1五角▲3八竜△6五角。どうもいずれもうまくいかないのである。
荒木さんは長考の末▲4四銀と打ったが、これも△1五角と打たれ、▲3一竜△4八角成と銀を取られては完全に形勢逆転である。△1五角には▲3八竜と引いて受かりそうだが、それは△2六角打という好手があってやはり先手おかしい。
それでは4図での正解は?▲3八竜(変化D図)と引く手である。
よく見ると、確かにこれで後手は何もすることができない。何もすることができなければ、先手は▲3四歩からゆっくりと金とつくっていけばよいのである。
「▲3八竜はプロなら第一感だよ」と局後伊藤五段に指摘された荒木さん「いやーこんな手は指せないよ。もっと攻める手を教えてよ。ない?それじゃ優勢にしたのが敗因なんだな」と苦笑い。
確かに速攻を仕掛けておいてから受けに回らなければならないのは攻め好きのアマチュアには指しにくい順である。そこが将棋の難しさなのであるが……。
ただ▲3八竜がどうしても指しにくければ▲7七桂と跳ねておく手はあった。これで△2八角なら▲3一竜△1九角成▲3七桂と進めてやはり先手優勢である。
5図以下の指し手
▲4九歩△2六馬▲3五歩△5八金▲7九金△6八金▲同金△4六角▲6九金打△5九銀▲5三銀不成△6八銀成▲7七玉△6九成銀 まで、60手で中瀬初段の勝ち。△4七歩成からは中瀬さんの寄せが冴えてちょっと荒木さんにつけこむスキはなくなってしまった。
棒金戦法は金が戦場に出ていく関係から必然的に玉の守りが手薄になる。したがってこういった形になると粘りが効かなくなってしまうのである。
無念の投了となった荒木さん、感想戦で伊藤五段に「よかったよなア。オレの勝ち筋さがしてくれよ」
伊藤五段が「▲3八竜と引いてりゃそれまでですよ」と答えると、「フェー。そりゃ指せないよ」と絶句。その後も荒木さんは「もっと簡単に勝てる手を教えてよ」を連発。
荒木さんには残念譜となってしまったけれど、とても楽しい対局だった。
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将棋世界同じ号の、中瀬奈津子女流初段(当時…現在の藤森奈津子女流四段)の「思い出に残る対局」より。
さて対局も終わり、夕食をごちそうになりました。荒木さんの奥様、3人のお子さん達、伊藤先生、北村さん、それに荒木さんのお友達など、大勢でワイワイガヤガヤと外で鉄板焼……皆さん、気さくな明るい方ばかりでとても初対面とは思えませんでした。
荒木さんのお宅には、棋士が大勢出入りしているそうです。真部七段、田丸七段、鈴木六段、伊藤五段、島四段、など。
(中略)
荒木さんも、奥様も素敵な方で、荒木邸はきっと居心地がいいんでしょうネ!
また、荒木さんのお宅には猫が沢山いて、ミルク、モモンジャー、ビューキちゃん、などそれぞれユニークな名前がついています。
実は私も大の猫好きで、しかも4日前に愛猫”ちゃん太”を亡くしたばかりだったので久しぶりに猫を抱き、大はしゃぎでした。
”ちゃん太”の話を聞くと荒木さんは「それじゃあ寂しいでしょう。一匹持って行ったら……」と言ってくださったのですが、愚猫とはいえ、3年以上もかわいがった猫です、しばらくは喪に服そうと思い、遠慮させていただきました。でも、ミルクちゃん、かわいかったナ―!
(以下略)
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4図、先手が大優勢だが、△2二角の竜取り詰めろと△1五角の竜銀取りの筋が気になるところ。
言われてみれば、▲3八竜か▲7七桂が正解手であることがわかるが、実戦の最中なら絶対に気がつきにくい一手。
カリフォルニアで金鉱を掘り当てて、金がどんどん出てきている最中に、家の鍵を閉めに一旦コロラド州の家に戻るような雰囲気なので、なかなか難しい。
中盤とはいえ、一手か二手の直接駒がぶつからない緩手でこのように形勢が逆転してしまうのだから、将棋はやはり恐ろしい。
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「それじゃあ寂しいでしょう。一匹持って行ったら……」という荒木一郎さんの言葉が絶妙に格好いい。
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荒木一郎さんは歌手として登場した頃はカレッジ系の爽やかなイメージだったのだが、その後、俳優としても活躍するようになると、そのニヒルな雰囲気から、姑息な放送局ディレクター、ヤクザなど個性的な役柄が多くなった。
そんな荒木一郎さんが、「広島ロケが恐い」ということで撮影直前に降りてしまった役がある。
「仁義なき戦い 代理戦争」の西条勝治(広能組組員)役。
たしかに、「仁義なき戦い」シリーズでは、役のモデルとなっている多くの「本人」たちやその組員が撮影所に激励や慰問に駆け付けて来たと言われている。
ただし、ロケは広島市が許可を出さなかったので(1973年当時の状況では抗争を再燃させる恐れもあった)京都市内で撮影が行われていた。
西条勝治に特定のモデルはいないが、次のような男だ。
- 情婦(渚まゆみ)にテレビを買ってやるために、自分の所属する組が警備を請け負っているスクラップ置き場からスクラップを盗んで売り払った。
- それがバレて、組長の広能昌三(菅原文太)にボコボコにされるほど怒られる。
- 通常ならそれで指を詰めるところ、手首を詰めてしまう。
- 手首を詰めたらピストルで敵を狙えんじゃろ、と更に広能に怒られる。
- 失地回復を図ろうとしてか、広能とは犬猿の仲の槙原組組長・槙原政吉(田中邦衛)を殺ろうと考える。
- 新入りの組員・倉元猛(渡瀬恒彦)に、女を抱かせてやると言いながら、槙原殺しをそそのかす。
- 倉本に自分の情婦を抱かせる。
- 初めは嫌がっていた情婦だが、倉本に惚れてしまう。
- それを知った西条は、非常に嫉妬し、槙原に匿名で「これからあなたの命を狙いに行く奴がいるから注意してください」と電話する。
- 槙原を狙う倉本。
- しかし、槙原組組員にそれを阻止され、倉本は殺される。
- 東京へ逃げる西条。
とんでもない男だが、荒木一郎さんの降板により、この役を射止めたのが、大部屋俳優だった川谷拓三さん。
川谷拓三さんにとっては、初めて名前がポスターに載る作品となり、出世作ともなった。
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その3年後、川谷拓三さんは、テレビ朝日系『必殺からくり人』で主題歌「負犬の唄(ブルース)」を歌うことになるが、その作詞が荒木一郎さんだった。
偶然だろうが、面白い縁だと思う。
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それにしても、荒木一郎さんの西条勝治、ぜひ見てみたい。