名観戦記裏話

将棋世界1981年2月号、東公平さんの「忘れえぬ観戦 中原名人誕生の一瞬」より。

 忘れえぬ観戦という題を頂いたが、往事茫々としてとりとめもなく、場面場面の思い出が、それぞれ一枚の日付のない写真のように脳に焼き付いているばかりである。忘れえぬ場面も、それが何年前の何月のことだったかという記憶は薄い。

 あの時はこうだった、と言って、さながらビデオテープをまわすように、とうとうと話をする人がいるけれども、悲しいことに私にはその真似ができない。

 私の最も畏敬する棋士は升田幸三九段であるが、年代にずれがある。升田氏の全盛時代に私は観戦記者としてではなく、記録係として盤側にあった。遠慮なく口をきくことなど思いもよらず、いうなれば雲の上の人であった。故塚田先生しかり、大山十五世名人またしかりである。

 仕事の上で、対等といえるお付き合いをさせて頂いたのは、同年代の二上九段や故山田九段であるが、観戦記に関して「この人」と一人にしぼるならば、中原名人ということになる。中原さんが「マコちゃん」と呼ばれて6級で奨励会に入ってきた時からよく知っているうえ、中原さんが四段、五段と昇ってゆく過程を見てきたし、それよりもご縁を感じるのは、私の初観戦記が「中原2級対吉田アマ四段」であったことだろう。

 その観戦記は「近代将棋」昭和36年1月号にのっている。奨励会とアマ強豪の対抗勝ち抜き戦が催され、中原2級が奨励会チームの先鋒として出場、二人抜いたあと、吉田直躬四段に負けた一局。私は「東天紅」という中華料理屋みたいなペンネームを自分でくっつけて観戦記を書いた。東天紅は、先輩の仏法僧のまねをして、鳥の名として、自分の姓にひっかけてつけた。のちに「紅」の一字だけを残したわけである。

 1図は中原-吉田戦。

 ここで中原少年、当時13歳のマコちゃんは▲3四歩と打ち、局後兄弟子の芹沢七段から「そんな手は将棋に無い手だ。やっちゃいけない手だ」と厳しく叱られていたのを鮮明に記憶している。

 そして、数年後には中原七段-芹沢八段のA級入りを賭けた一戦があった。すでに朝日新聞の観戦記者に採用されていた私は、B級特選譜としてその運命的な一戦を書かせてもらうことができた。芹沢八段が好局を失い、一方大阪で、米長七段が大野八段を負かしたために中原七段のA級入りとなり、芹沢八段が投了してする「おめでとう」と言ったという、これはその後いろんな本に書かれている大勝負であった。

 A級入りした中原八段が、初めて升田九段と本場所で対戦し(それまで他棋戦で2勝2敗だった)ひねり飛車から▲7七飛という名手を指されて完敗した将棋(2図)も思い出深いものである。

 この年、新八段の中原さんは5勝5敗にとどまる。升田九段が6勝2敗で大山名人に挑戦、升田式石田流を連続採用したが3対4で敗れ去った。

 書いたモノとしてはこの大山-升田の名人戦が、私としては上出来と思っているが、忘れえぬ―という意味では、その次の年の大山-中原の名人戦にとどめを刺す。

名人位の交替を見る

 昭和47年。

 第31期名人戦は、A級で8戦全勝の記録を作った24歳の中原八段が、無敵をほこり「不沈艦」の称ある48歳の大山名人に挑戦した。

第1局 大山三間飛車、中原勝ち
第2局 大山中飛車、大山勝ち
第3局 大山四間飛車、大山勝ち ☆
第4局 大山中飛車、中原勝ち
第5局 大山三間飛車、大山勝ち
第6局 中原三間飛車、中原勝ち ☆
第7局 中原中飛車、中原勝ち ☆
(☆印は私の観戦)

 最終第7局は6月7、8日両日、3勝3敗のあとをうけて東京・渋谷の「羽沢ガーデン」で行われた。今にして思えば、将棋史上の大きな大きな区切りとなった日である。

 当時、朝日には4人の観戦記者がいた。私はすでに第3局と第6局を書いており、お役御免と思っていたところ、どういう訳だったか知らぬが、田村孝雄さん(竜)から、第7局もあんたにやってもらうよと言われて、飛び上がらんばかりに嬉しかったことを忘れない。といっても、決して「中原新名人誕生」を予想していたからではなく、また、原稿料が頂けるからでもなかった。

 ま、いうなれば「君も一人前の観戦記者になったぞ」というお墨付きを社からもらったわけで、その嬉しさである。

 すでに観戦した第6局では、カド番に追い込まれていた中原八段が、先番なのに、全国のファンをあっと驚かす、敵のお株を奪った三間飛車に出た。3図がその一場面で、△8九飛と打った大山さんの楽観の一手に乗じて▲3一銀の名手が出た。

 △同金▲4三馬△7一飛▲8二銀という俗手の好手が続く。大山名人は屈せず、猛然と粘りに出たけれど、終盤はどうしても一手足りなかった。「3一銀に全然気がつかなかった」と大山名人が感想で言っている。

 さて本題の第7局である。

 私の観戦記は、この局を12譜に割り、小見出しに”新手”を使った。すなわち第1譜を「午前八時五十七分」として、開局3分前の振り駒の情景から書き始めた。第2譜を「午前十時三十五分」として、大山名人が▲5七金と進めたことを記し、これに対する中原八段の、81分という長考の内容を、語りの形式で文にした。

 第5譜は「八日午前九時」である。

『早朝から強い風が吹いていた。八時すこし前から降ったりやんだりの不機嫌な雨になった。』

 と筆を起こし、封じ手を開封する情景を述べた。4図で▲4六銀が大山名人の封じ手であった。

 この『不機嫌な雨』という一句と他にもう少し長い所を、お目にかかったこともない作家の小島政二郎さんがほめて下すったことも忘れられない思い出である。

 第2日の終盤戦は難解を極め、5図のようになった。

「午後六時」の見出しで次のように書いている。なお5図からの指し手は▲2一飛成33 △4一歩7 ▲9九香 △9四歩 ▲同香2 △8二玉 ▲3二竜3 △5七と26 ▲9三角 △8一玉(6図)となっている。

『名人があんなに練った2一飛成が失着とは……天運に見放されたとご報告するよりない。ここでの最善手は、4四歩、同飛、4五歩、同飛、4六歩の三連打であった。中原は絶対に飛を渡すことができないのだ。』

 このあとの数行は略する。

『9四同香を同玉とは取れない。歩切れだからもう一度9九香と打たれてそれまでになる。ただし9四歩はミスではなく、中原の巧技だった。飛交換になればすぐ9八飛と打てる形をつくったのである。8二玉と引いた中原は、さっと席を立った。

 名人が「……して、どうかな」とひとりごとをいった。自信にあふれた表情だった。中原が戻ってきた。すわろうとしてハカマのすそで左後方のクズ入れをひっかけてころがした。けげんな目つきでその赤い塗りの箱を見つめた。元に戻して、すわった。

 名人は、そでをたくし上げた右手をのばし、3二竜と引いた。シーッと荒く息を吸う。それから両手を前にそろえ、体をすぼめる。中原、考え込む。』

 小島さんは、クズ入れをひっかけてころがした、という情景描写が、すなわちうまい心理描写になっているとほめて下さったのであるが、今だに私にはよくわからない。文章とは難しいものである。

 この対局で、やはり一枚の記念写真として深く心の中にしまってあるのは、大山名人が「どうも、これは負けですね」と投了した瞬間の、中原八段―いや、新名人の顔だ。

 私はこの瞬間をうまく読者に伝えたいと考えていた。ただそれのみを考えて観戦していたと言っていい。全国の将棋ファンの中で、名人交替の一瞬を目撃する光栄に浴するのは実に私ひとりだからである。控え室で「中原勝ち」の予想が出された時に、それまで大山名人の顔がよく見える側(記録係の右)にすわっていた私は、反対側に席を変えた。中原八段を左斜前から直視できる席に変えたのである。この動きは、大山名人にぴんと伝わったはずである。ははあ、東君が席を変えたのは、控え室の棋士か、あるいは升田さんかピンさん(加藤一二三)が大山の負けだと言ってるんだな、と。

 それが分からぬ私ではないから、席を変える前に気おくれがしたのをおぼえている。

 ところが、それ程までに苦心して目撃した「新名人誕生」の一瞬が、書こうとして、どうにも文章にできなかった。苦しんだ私は、最終譜一日分を書くのにまるまる二日ぐらい悩んだのであった。その結果がどういう表現になったかというと―。

『なだれ込んだ報道陣が二人のまわりをぎっちり取り巻いた。フラッシュの雨。微笑を浮かべている大山さん。うつむいて、泣きだしそうに見えるマコちゃんの顔。』

 で、しめくくりとした。後日、山口瞳さんにお会いした折、うまく描けなかった悩みを打ちあけた。山口さんは「どれどれ」と切り抜きを持ってこられて(単行本だったか)読みおわるなり「ちょいと女性的だね」と言われた。私はガクゼンとした。作家とは恐ろしい眼力を持っているものだ。

 なぜならば―まる二日ほども苦しんだ挙句、私は最終譜の三通りの文章を、当時妻だった女性に見せて「どれがいいか決めてくれよ」と頼んだのだから。これは盤外の「忘れえぬ」思い出である。

 第6局の△8九飛と、第7局の▲2一飛成が、ともに敗因という偶然の符合も何やら因縁めく。それよりも、少年少女の読者の皆さんには、中原さんという名人は、2勝3敗と追い込まれてから、めったに指したこともない振り飛車で大山名人を倒したのだということをおぼえておいてもらいたい。それが、どんなに勇気のいる事なのか、いずれ分かる日が来ると思うのだ。

 7図は「中原名人誕生」の最終局面である。△6七香成で大山さんの玉はどうしても詰んでいるというが、この投げっぷりの潔さも、忘れえぬ事のひとつだった。

 私の観戦記12譜の見出しは「午後八時四十五分」であって、すなわち大山名人投了の時刻にしてある。

 盤面は、かなりの間、崩されずにあった。カメラマンが写真をとりまくっている間、大山さんと中原さんは、朝日の記者たちのインタビューにこたえていた。私は、中原新名人の駒台に「飛角金銀桂香歩歩」と駒一式が揃っているのに気付いていた。さらに、その時であったか、原稿を書く段になってからであったかは忘れたが、なにげなく盤上の駒の数を数えたのである。24枚。

 24―それは、新名人の年齢だった。そして大山さんと中原さんの年齢の差でもあった。こんな事ばかり憶えていて、どうして私はいまここでも、中原新名人の、あの一瞬の表情を活写することができないのであろうか……。

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このブログを始めたのが2008年6月4日。

そういうことで、今日が10周年となる。

過去、6月4日に周年がらみでどのようなことを書いているのか調べてみた。

2008年 流れ流れて
2009年 1年間のまとめ
2010年 ブログの誕生日
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2013年 ブログ開始6周年
2014年
2015年 将棋ペンクラブログ7周年
2016年 ブログ8周年
2017年 今日からブログが10年目(9年間で多く読まれた記事TOP50)

2008年はブログの初めての記事。

1周年、2周年までは周年を気にしていたけれども、あとは気にならなくなり、次に気にするのが5周年(開始6周年という数えの表現になっている)。

7周年からは、そろそろ10周年ということで毎年周年記事を入れるようになったのだと思う。

しかし、いざ10週年の日を迎えてみると、入社11年目の4月1日を迎えた時のようなもので、特に感慨がない。

そういうわけで、今日は周年記事はなく、東公平さんの渾身の文章を。