漫才のような大盤解説

将棋世界1983年1月号、「将棋の日の集い 大笑い名古屋の夜」より。

 大山十五世名人の講演は「勝負のこころ」と題して35分ほど。

 少年時代、木見八段のところに弟子入りしたころの話から、今後の将棋界についてまで話題は広がったが、会場を沸かしたのが加藤一二三名人と対局した時の話。

「わたしも食べるほうですが、加藤さんには負けます。なにしろオヤツにチョコレートを5枚くらい食べるわけです。それもチョコレート1枚をそのままベルトコンベアのようにズーっと口の中にいれたらそれでもう一枚終わりなんですね。まあ5枚もあるんだから、おせじでも相手に”一枚どうぞ”といったらと思うんですが、わたしには言ってくれませんでした」これには会場も大笑い。

 そして谷川八段のことは、将来将棋界を背負って立つのは間違いないとしながらも、「以前いっしょに旅行した時、バスに酔ったようだ。ほんの少しの弱点でも将棋には影響してくるから、第一人者になるためには身体を強くすることも大切だ」と鋭い指摘。

 

 大山十五世名人の講演が終わると、いよいよ本日のメインイベント、中原誠前名人対谷川浩司八段の公開対局。この顔合わせだけだってすごいのに、これに芹沢博文八段と板谷進八段の解説がつくというのだから、ファンならたまらないサービスだ。

 芹沢八段の話術については大方の人が知るところだが、板谷八段の名調子もかなりのもの。

 論よりは証拠。二人の名やりとりを聞きながら、この一戦をご覧いただこう。

1982年11月17日 於愛知厚生年金会館
先▲八段 谷川浩司 △前名人 中原誠
▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩▲7七銀△6二銀

(中略)

板谷「芹沢先生はこの二人のことになるとベタベタになっちゃうんでしょ」

芹沢「いや、オレは物事を冷静に見つめて正しいことを言っているだけだ。その証拠に君が名人になるなんて言ったことあるか」

板谷「マイッタ。先生そういえば、NHKじゃ二番も勝っちゃったらしいですね。

芹沢「そうなんだ。みんなオレの将棋見てくれた?(手を振ると会場大拍手)二上ってのをやっつけたんだけど、大したことなかったね(会場笑)。ところが、今度当たるのが桐山っていうんだけど、これが駒を交換するとすかさず自陣に打つってやつなんだね。やだねーこういうタイプは、きらいだよ」

 会場大爆笑。この声は対局者にも筒抜けだから中原も谷川も下を向いてクスクス。

 将棋の方は少しずつ難しい局面になってくる。板谷の予想する手を谷川が指さない。

板谷「オレの言った手は指さないな」

芹沢「あたりまえだ。谷川君だって君と同じ棋力とは思われたくないよ」

 やられっぱなしの板谷「なんにしても一言ずつホラがふけるってことはたいしたもんだ」と少し反撃。

 まだ序盤の駒組みが続くと思われていた局面で、突然谷川が▲6五歩から▲2五桂と攻め出した。

 1図谷川の▲1三歩に、中原少考。

 谷川中原1

芹沢「ここでどう指すもんか答えてみろ」と駒操作の杉本6級をつかまえる。

「同香……」というかぼそい声に「バカそんな手あるか」きびしいねー。

1図以下の指し手
△1五歩▲6六角△5五歩▲同歩△6五歩▲5七角(2図)

谷川中原2

 △1五歩、当然こう指すもんだそうだ。これで谷川から攻める手が難しくなった。

 ▲5七角に中原前名人長考。

芹沢「どう指すところかな」

板谷「うーん、△8六歩から△8八歩としたいな、カベにしてね」

芹沢「まあそんなところかな。だけど今の聞こえたから中原別の手を考えてるよ」

 結局中原前名人△8六歩。局後「考えたんですが、これがやっぱり本筋なんで驚きました」

(中略)

谷川中原3

 ▲6六同金△同歩に▲6八歩と谷川辛抱。ここでどう攻めるかと見ていると、なんと中原△6七金(3図)と打ち込んだ。

芹沢「すごい手だね。こりゃ今日の中原、機嫌が悪いんじゃないか」

 しかし、この攻めはきびしく、谷川陣はどうにも受けがなくなった。受けがなければ攻めるのみ。▲1五香から▲4一銀は反撃に活路を求めたもの。

(中略)

谷川中原4

 ▲5二金となって中原陣も相当危ない形になった。どう受けるかなと見ていると中原平然と△7七角成(4図)。

「詰んだんじゃないか」と会場から声が上がる。後手玉は詰みか?

4図以下の指し手
▲3二銀成△同玉▲4二金打△2二玉▲1二歩成△同玉▲1四香△2二玉▲1三角成△同桂▲同香成△2一玉(投了図)まで102手で、中原前名人の勝ち。

 △7七角成の瞬間「こりゃ打ち歩詰めだ」と板谷八段がつぶやく。

 30秒将棋の中で中原前名人は詰みなしを読み切り、板谷八段も瞬時にそれを看破したのだった。

谷川中原5

 はっきりするところまで王手を続けた谷川八段が「負けました」と頭を下げた瞬間会場からは割れんばかりの拍手が沸き起こった。

 プロの最高の芸を間近に見ることの素晴らしさを皆さん十分に味わった顔だ。

 それにしても将棋もよかったのだが、場を盛り上げる上で解説者の役割の大きさを改めて思い知らされた。

(以下略)

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芹沢博文八段(当時)に「ここでどう指すもんか答えてみろ」と振られた駒操作の杉本6級とは、板谷進八段(当時)門下の現在の杉本昌隆七段。

まだ15歳だった杉本6級、不意討ちを受けたような感じで、ビックリしたことだろう。

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芹沢博文九段は1987年12月に、板谷進九段はその3ヶ月後の1988年2月に亡くなる。

将棋マガジン1988年5月号の「板谷進九段を追悼する」より。

米長邦雄九段「かけがえのない人」より抜粋。

 板谷君は私や大内九段とも同期生のよしみで気が合ったが、一番親しかったのは芹沢さんだった。二人はよく酒も飲み、また板谷君は上京して芹沢家に泊まることもしばしばだったようだ。二人に共通していたことは愛妻家だったことだ。私が板谷君に、「棋士の奥さんで一番幸せなのは君の奥さんだよ」と言うと、必ず決まって「それは俺がもてないという事か?」と笑って答えたものだ。

大内延介九段「嗚呼、棋好勇進」より抜粋。

 通夜の席、板谷君の愛弟子、小林健二八段が私の手をとって泣きじゃくった。板谷君と仲よしの木下晃六段は祭壇に飾られた写真を見て、「あんなに明るく笑っていると、つらくなる」と目頭を熱くしていた。誰かは、「芹沢さんが呼んだんだよ」といった。兄弟のように親しかった酒豪の二人は、いまごろ酒をくみかわして将棋界のことを話していることだろう。誠光院棋好勇進居士、彼の戒名だが、いかにも彼らしく、棋好勇進とはよく付けたものだ。

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肝胆相照らす仲だった芹沢九段と板谷九段。

そのような仲だからこそ醸し出せる漫才のような雰囲気の大盤解説。