将棋世界1971年5月号、倉島竹二郎さんの「南海の巨匠(17)」より。
それは東西対抗縉紳将棋大会と銘打って、東京の各界の愛棋家連と、大阪の清交社を中心とした愛棋家連が箱根山に会し、東と西とどちらの愛棋家が強いかを決めようという将棋会だった。が、それは表面上の話で、実際はその将棋会の席上で十三世名人関根金次郎翁と坂田三吉翁を対面させて手を握らせ、長い間絶縁状態にあった将棋連盟と坂田派一派を和解に導こうというのがネライであったらしい。
そのネライは坂田翁の不参で実現しなかったが、私は今はなき佐々木茂索、南部修太郎の両先輩と共に、文壇を代表して参加した。会費が当時としては破天荒な20円(20円以下のサラリーマンがさらにあった時代である)だったので、私は最初辞退したのだが、大崎八段が会費はこちらで何とかするから心配はいらぬというので出席したのである。後で聞いたところによると、私の会費は将棋界の顔役であった中島富治氏が出してくれたとのことだった。
(中略)
会費の高いのも道理で、坂田翁一派を除く東西高段棋士の殆んど全部が顔を揃えるという壮観さであったが、最年少者だった私は幸いに4連勝土つかずで、個人優勝の最右翼候補となった。全体の成績も東京の方が圧倒的によかったので、大阪方は躍気だったが、大阪方の主将格である岸作次郎氏(数年前に京都で亡くなられたが、免状はアマとしては最高の六段だった)は何とかして個人優勝だけでも食い止めようと
「倉島はん、最後の5局目はわてがお相手しますさけ、ちょっと待ってとくれやすや」と、釘をさした。その時、岸氏が当時はすでに四段の免状を持っていて、私より大分強いということを聞いていたが、敵に後ろを見せるのは卑怯な気がして、潔く挑戦に応じるつもりだった。が、岸氏の将棋がすむまではまだヒマがかかりそうであったので、その間に一ト風呂浴びることにして湯殿に出かけた。と、その湯槽の中でパッタリ顔を合わせたのが関根名人で、他には誰もいなかった。
関根名人は私の顔を見るなり
「4連勝とはえらい。今日の優勝はあんたに決まった。何故って、名人のわしと一緒の風呂に這入ったんだから、気が移っていざという時将棋の神様が助け船を出してくれるからじゃ」と、上機嫌で縁起を祝ってくれた。私は気やすだてに最後の一番を岸作次郎氏から挑戦されていることを話し、あまえ心で
「名人、何か負けない勝負のコツはありませんかね?」と、虫のよいことを訊いた。
関根翁は微笑しながらちょっと首をひねったが、すぐ、私の方に体を寄せてくると
「あることはあるが、これはわしの極意皆伝じゃから、誰にも喋りなさんなや」と気を持たせてから
「負けないコツはただ一つ―相手を選ぶことじゃ」と、小声で去って破顔一笑。
関根翁の言葉の意味が私にはピンときた。私は急いで湯殿を出ると、まだ全部指し終わっていない大阪方の中から、余り強そうでない相手を選んで挑戦した。そして、皆の注意を引かない隅っこの盤で指し、難なく凱歌を奏することが出来た。
岸氏はやっと4局目をすませ
「倉島はん、お待っとはん。さあ―」と気負い立って叫びかけたが、その時には既に5連勝土つかずで私の個人優勝は決定していたのだ。岸氏の口惜しがること―無理もなかった。
その個人優勝の賞品に、私は将棋盤に仕つらえた燦然と輝く銀カップを貰って、皆を羨ましがらせた。私は大崎八段や大崎会の愛棋家達と一緒に意気揚々と引き上げたが、メリヤス問屋をしている佐藤さん(故人)という人が
「倉島さん、どうだろう、その将棋盤カップを50円で譲ってくれないか?」と持ち掛けてきた。当時の50円はなかなかの大金で、私は食指大いに動いたが、母や妻にも見せなかったので、断ることにした。
が、この将棋盤カップには後日談がある。それから何年かして、麻雀に負けすぎたのと銀の値段が上がったのを耳にしたので、私は将棋盤カップを手ばなすことにした古道具屋に見せた。と、それは銀は銀でも洋銀で、売るとなると二束三文の値打ちもない代物だった。
それはともかく、箱根から帰って間もなく、私が湯槽の中で関根名人から負けないコツの極意皆伝を許された話を大崎八段にすると、大崎さんは
「強い名人はこれからいくらでも出るだろうが、関根さんのような風格のある名人はもう滅多に出ないだろう」と、感に耐えたように去った。私はそれを聞きながら、大崎さんのような異色の巨匠もまた、もう滅多に出ないだろう―と、そう思った。
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洋銀とは、銅を主としニッケル・亜鉛を含む、銀白色の合金。銀の代用として装飾品などに使われる。
ちなみに現行の五百円硬貨は、銅72%、亜鉛20%、ニッケル8%で、まさに洋銀と言えるのだろう。
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小学生の頃に読んだプロレス雑誌に、当時NWA世界ヘビー級王者だったドリー・ファンク・ジュニアは、強いレスラーからのタイトル挑戦を拒むことが多いと書かれていた。
ドリー・ファンク・ジュニアは十分過ぎるほど強い名レスラーだったが、そのようなことも後押ししてか、4年3ヵ月という長期間、NWA世界ヘビー級王者を保持し続けていた。
関根金次郎十三世名人が語る負けないコツが正しいことを証明している事例の一つだ。
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文中に出て来る京言葉は、京都市出身の倉島竹二郎さんだからこそ書ける正しい京言葉なのだろう。
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若い頃に全国を放浪していた関根金次郎十三世名人、本当に魅力的な人柄だと思う。