「横ちゃん」

近代将棋1992年11月号、湯川恵子さんの「女の直感」より。

 横ちゃんは学生時代に四谷のアマ連の事務所へ遊びに来たんだってね。

 じきに博士がうちへ連れてきた。目をきらきらさせて、大きな声でよく笑う。まだ小学生だった娘とも夢中で漫画の話をしてたね。いつかDr.スランプあられちゃんの本をたくさん持ってきてくれた。そのうち可愛いガールフレンドを連れて来た。高校時代の友達のノブちゃんだって。なんだかお雛様みたいなカップルだったよ。散歩して藤蔓みつけターザンごっこしたっけね。白山の横ちゃんちの近くの喫茶店では囲碁なんか打ったね。お互いルールもろくに知らなかったから将棋よりはましな勝負だったな。

 弟みたいにくっついてたと思ったら、いつの間にか編集者としてリードしてくれていた。横田稔さん。

 荻窪へ引っ越して男の子が生まれて、リョーヘイ、リョーヘイって。でも横ちゃん、ちっともお父さんぽくならなかった。中原将棋の研究とか大山将棋の研究とか長いのをたくさん書いた。どうしてこういう言葉思いつくんだろうって、新鮮な文章でびっくりしたよ。私の原稿もいつも一番先に読んで必ず感想を言ってくれた。編集長になったら張り切っていたけど、だんだん疲れていくのがわかった。喘息のひどい時は辛そうだった。横ちゃんは人に気を遣うタイプだから、自分が体調悪い時は2倍苦しんだろう。

 編集長を辞めて静養した頃は、あれ書きたいこれやりたいって夢ふくらませたね。週刊将棋の嘱託に入った。報知の女流名人戦の観戦記も始めた。毎日新聞の名人戦の観戦記を書くようになった時は横ちゃん、ついに夢が叶ったって最高に喜んでいたねぇ。週刊将棋の人は、将来は横ちゃんを編集長にしたいって期待してた。横ちゃんはほんとセンスがいいから。

 私の連載も担当してくれたね。新宿のどんちっちのマスターにイラスト頼んでくれた。酒飲まない横ちゃんが、よく通ってくれたなぁ。

 将棋ペンクラブの編集でご機嫌の時もあったしその反動の時期もあったねぇ。フランス帰りでやたら興奮してた。ひやひやしたよ。アパートへ押し掛けて絶対入院しなさいって言った時は、絶交されても仕方ないと覚悟した。でも元気で退院したね。良かった。

 喘息なのに、なんで、考えたら何度も一緒に酒飲んだよ。新宿2丁目の店でさ気がついたら朝になってたことあったじゃない。真っ赤なブラディマリを9杯ずつおかわりしたのよ。あの時は何の話だっけ、横ちゃんが私を不安精神症だって心配してくれた。そうそう、私の小説がトラブルおこして喫茶店で男の人たちに囲まれた時。あの時私の味方で座っていてくれたのは横ちゃんだけだった。古い話だけど、ありがとうね横ちゃん。

 今、横ちゃんの本が売れてるね。ドル箱ですよネ高橋書店さん。

「超急戦!!殺しのテクニック」

「序盤戦!!囲いと攻めの形」

 2冊とも第8版9版と増刷を重ねている。横ちゃんは将棋のエキスをカタログのようにした本を書きたいと言ってた。思い通りの本を書いて受けたんだから、うらやましいなぁ。鷺ノ宮の邸宅へ引っ越したのはいつだっけ。

 7月24日の夜中に、久しぶりに電話くれたね。「いまチェスのレベルⅢのソフトに挑戦して、負けちゃったんです」

 あら、今チェスの仲間が大勢集まって騒いでいるのよ。来ない?

「わ~行きたいなぁ。でも体調が。いつものことですけど」

 7月27日に入院したって。病院から電話くれた。前日に大山十五世名人が亡くなって、横ちゃん「ショックです」と言った。「大山先生の追悼文を書きます。将棋ペンクラブに30枚書く予定です。送りますから見てください」

 少し書いちゃぁ電話で読んでくれた。

「あと1週間で退院します。あの週刊将棋の連載の打ち上げ、まだやってなかったですよね。退院したらやりましょう」

「何古いこと言ってんの。高橋書店がまたあなたの本出したがってるそうよ」

 8月2日に見舞いに行ったら、面会時間外で、看護婦さんと対決したよ。

「どういうご関係ですか」

「友人です」

「どういうご関係のご友人ですか」

 さんざん嘘ついて、5分間だけ入れてもらったの。横ちゃんは薬疲れでヘトヘトみたいだったけど、しゃべりまくったね。大山先生のこと昔のことチェスのこと絵のこと。しかし、どういうご関係のご友人なんでしょうねぇ横ちゃん。

 ほとんど毎日病院から電話くれたね。

 8月30日の夜もくれたんだって?留守しててごめん。また見舞いに行く約束してたんだ、行かなくちゃと思ったよ。

 でも次の日、横ちゃんは死んだ。

 わけわかんないよ私。大山先生の取材でもしに追い掛けたの?

「ちっ横田もしょうがねえ奴だな」って博士は怒って、すぐ雑誌ひっくり返して切りぬきを始めたよ。

 通夜は大勢集まった。さすが人気者だったんだね。横ちゃんの作品も切り張りした文章ね、ノブちゃんが100部もコピーしたけど全然足りなかったって。

 通夜の晩、私は新宿からあんたの日大理工将棋部の仲間たちの車で白山のお寺へ向かったの。偶然、四谷のアマ連の事務所があった所を通ったよ。それから横ちゃんが通ってた毎コミ本社のビル前も通ったよ。白山に入ったら今西君がね、「あ、あそこ、横田さんが学生名人戦でベスト8になった時の試合会場だ」。

 それからさぁ昔へぼ碁を打ったあの喫茶店の前も通ったんだよぉ横ちゃん。

 もうじき35歳の誕生日だったね。

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以前、湯川恵子さんに「恵子さんは追悼文の名人ですよ」と言ったことがあるが、この文章を思い出してのこと。

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横田稔さんは、学生時代から将棋ジャーナルの編集を手伝い始め、卒業後は将棋ジャーナル編集部に勤務。1984年からは湯川博士さんの後を引き継いで編集長を務めた。

編集長時代に、持病の喘息が悪化した。

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毎年8月31日、横田稔さんを偲ぶ飲み会が開かれている。

横田さんの奥様、湯川博士さん、湯川恵子さん、バトルロイヤル風間さん、中野隆義さんなどがメンバーだが、2017年に中野さんが亡くなられてからは、中野さんを偲ぶ会も合同で同時に行われることになり、中野さんの奥様も現在では参加メンバーとなっている。

今年の8月31日には、コロナが落ち着いていてほしいものだが。

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今までで、文字を打ち込んでいるうちに涙がこぼれ落ちてきた追悼文を思いつく限り挙げておきたい。

棋士だけの持つメリーゴーランドの世界

広い東京でただひとり、泣いているよな夜がくる

先崎学六段(当時)「彼が死ぬと思うから俺は書くんだ」

森信雄六段(当時)「村山君よ、安らかに」