森下卓九段「将棋を覚えて28年、こんなに驚いたことはありません」

将棋世界2004年9月号、山岸浩史さんの「盤上のトリビア 第6回「創案者が一度も指していない新手がある」より。

新手誕生

「かぁぁぁぁぁぁっ!」

 という大声の主は森下卓九段である。

「将棋を覚えて28年、こんなに驚いたことはありません」

 5月4日、都内某所。島朗八段が森下九段、鈴木大介八段、清水市代女流名人に呼びかけて開かれた研究会。幸運にもその場に居合わせた私が目撃した「歴史的瞬間」から話をはじめたい。

 研究会のテーマは、居飛車VS振り飛車戦のさまざまな最新局面を掘り下げ、見解を述べ合うというもの。こってりした居飛車穴熊の将棋が続いた口直しに、最近よく指される急戦石田流三間飛車、いわゆる早石田を調べることになった。

 この戦法を得意とする鈴木八段が先手、森下九段が後手を持って駒を進め、先手早石田の基本形が描き出される。

 ▲7六歩△3四歩▲7五歩△8四歩▲7八飛△8五歩。

「ここで▲7四歩はないんですよね?」

 なにげなく島八段が発した、私などが同じことを言えば失笑を買うだけの初歩的な質問が、すべてのはじまりだった。

 ▲7四歩△同歩▲同飛。

「それはさすがにダメでしょう」

 即座に森下九段の手が舞う。

 △8八角成▲同銀△6五角。

 馬を作られて先手不利、と多くの定跡書が教える図である。ここで鈴木八段がもう一手粘る気になったのは、早石田の使い手としての自負心からだったそうだ。

「指すなら、こうですか?」

 無造作な手つきで、鈴木八段は5六に角を置いた(1図)。

トリビア1

「ほう」と身を乗り出し駒を動かす一同が、やがて「まさか」という顔になる。飛車を取って悪いはずがない。だが△7四角▲同角のあと、▲6三角成を防いで△6二金などには、▲5五角がある。香取りを防ぐ手が△1二飛しかないのでは、むしろ後手がつらいのではないか―。

 もし▲5六角が成立すれば、早石田は7手目にいきなり▲7四歩が可能になる。森下九段があげた驚嘆の声が、常識を覆す新手の産声にも聞こえた。

完敗だったデビュー

 5月7日。関西将棋会館の控え室に、山崎隆之五段と10秒将棋を指しつづける鈴木八段の姿があった。戦形はすべてあの早石田。旧知の間柄であるアマチュアの今泉健司さんが観戦しているのを見つけた鈴木八段は、こういった。

「これ、使ってくださいよ」

 5月13日。自宅で研究会を開いていた島八段に中田功六段からメールが届く。

<鈴木八段に新手が出ました>

 その日は、桐山清澄九段VS(先)鈴木八段の銀河戦が指されていた。

「あれが出たようです」

 すぐに察した島八段が5月4日の手順を披露し、若手きっての研究家として知られる村山慈明四段も検討に加わった。

 ただし、桐山-鈴木戦では7手目▲7四歩に対し桐山九段が△同歩▲同飛△7三歩と穏やかに応じたので、肝心の▲5六角は出現していない。△7三歩には▲7五飛が好着想で、先手十分となった。

 ▲5六角の公式戦第1局は、奇しくもその村山四段と今泉さんが激突した6月6日の朝日オープンだった。

「どうしてこの手を知ってるんだろう」

 先手の今泉さんに▲5六角と打たれて、村山四段は不思議に思ったという。

「でも自分なりに対策は考えていました」

 結果的に、この将棋は早石田の完敗に終わった。1図から△5六同角▲同歩△2二銀とする村山流が功を奏したのだ。たしかにそう進んでみると、5筋の歩を突かされた先手陣は角打ちのスキが多く、▲8八銀とのバランスも悪い。

『週刊将棋』に「この戦法を流行らせようと思ったけど、ダメかも」という今泉さんの談話があった。誕生から1ヵ月、新手は早くも潰されてしまったのか……。

すさまじい研究合戦

「あの村山流は、すでに過去の遺物です」

 7月2日、新手の「その後」を尋ねた私に鈴木八段は力強く答えた。

「そもそもあの将棋は先手は悪くなかった」。鈴木八段の大熱弁がはじまった。

 村山-今泉戦は1図から△5六同角▲同歩△2二銀▲6八金△3三銀▲4八玉△4二玉▲3八玉△8六歩▲同歩△同飛▲8七歩△8二飛▲7六飛△6二銀(2図)と進行した。

トリビア2

「本譜はここで▲8六飛とぶつけ、強く△同飛と交換されたのですが、その前に▲1六歩△1四歩と突き合うべきでした。今度は飛車を持てば▲1五歩から手を作れるから、後手は飛交換しにくい。△8五歩と打たせれば、先手十分です」

 結局、この村山流は疑問であることを村山四段自身も認めているという。

「ところが新村山流が出たんです。1図から角を換えたあと、△2二銀に代えて△7三歩(3図)と打つ。

トリビア3

 これで飛車の引き場所が難しいだろう、というのです。最善は▲7八飛ですが、△5七角▲7七銀△2四角成で後手がいいと。

 しかし、これには▲6六角で先手よしでしょう。以下△2二銀▲8八飛△3三銀▲8六歩△同歩▲8四歩(4図)の局面は十分すぎて先手お腹いっぱい。▲7六銀~▲7七桂の活用もあり、後手は馬を作ったくらいじゃ追いつかない。▲6六角は、おととい見つけた手です」

トリビア4

 こうしたお互いの研究は、奨励会員を媒介にして交換されることが多いそうだ。

「しかし、向こうもまた修正案を出してきた。(3図から4手目の)△2四角成に代えて△8四角成(5図)です。

トリビア5

これにもやはり▲6六角と打ちますが、△同馬▲同歩△6七角で後手よし、がおととい聞いた最新の村山説です」

 このあとは長手順になるがご容赦を。

「△6七角以下、▲4五角△6二銀▲8八飛△4九角成▲同玉△3五金▲3六角△同金▲同歩△6七角▲3八玉△5六角成▲4八銀△5五馬▲3七銀△3三馬。この局面をどう見るか、ですが、ここで▲5八金△4二玉▲5七金(6図)が、きのう考えついた構想です。以下、△3二玉▲8六歩△同歩▲同銀△6四歩▲4六銀△6五歩▲5五歩と収まれば先手が手厚すぎて、必勝に思えるんですが。これがきょう現在の僕の見解。あとは向こうがきのう1日、どう過ごしたかです」

トリビア6

 9つの研究会に所属し、5日連続で出席したこともあるという村山四段にきのう1日をどう過ごしたか尋ねると―。

「渡辺(明五段)君と、この戦形を研究していました。(3図以下)▲7八飛△5七角に対して▲5五角△2二銀▲7四歩△同歩▲8二角成と飛車を取りにいく渡辺流が出て、これも有力そうだな、と」

 村山四段がいまいちばん興味があるのもこの早石田で、ほかには渡辺五段と戸辺誠三段が熱心に研究しているそうだ。

 それにしても目まぐるしいですね。

「横歩取りなんてもっとすごいですよ」

 研究家、というイメージに似合わないやんちゃな顔で村山四段はいう。

「僕の直観では、この早石田は最後には居飛車がよくなる気がします」

一局も指せない!

 島八段によれば鈴木八段は最近、居飛車側の振り飛車対策が進んできたため「振る筋が少なすぎる」とぼやいているそうだ。中飛車から向かい飛車まで4通りしかない、というわけである。

 するとこの早石田は強力な秘密兵器になりますね?と尋ねると、意外や鈴木八段は表情を曇らせた。

「私もこれで4、5勝は稼げると思っていました。ところが、この形にならないんですよ。いま私は先手なら3手目はすべて▲7五歩ですが、相手が△8四歩~△8五歩ときてくれないんです」

 なんと鈴木八段自身は、公式戦でまだ一局も新手▲5六角を指していないのだ。皮肉にも、有力という評判が先行したため、相手が避けてしまうのだという。

「△8五歩とこなければ角道を止めて石田流本組みにできるから、本当はありがたいんです。とはいえ、いま『新手一生』ならぬ『新手一勝』といわれていますが一勝どころか一局も指せないなんて。プロはカラいですね……」

 でも、升田幸三賞の有力候補でしょう。戦法名は「鈴木式石田流」ですか。

「実戦例が一局だけじゃ本当に成立するかもわかりませんよ。早く指したいなあ」

 鈴木八段が期待しているのは、先手番と決まっているA級順位戦の2回戦。相手は羽生善治王座。△8五歩とくる確率は70%と予想しているそうだが―。

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「十分すぎて先手お腹いっぱい」、「先手が手厚すぎて、必勝に思えるんですが」など、鈴木大介八段らしい前向きに楽観的なコメントが嬉しい。

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今泉健司四段は1999年に奨励会を退会し、この頃はアマチュア棋戦などで大活躍していた時。

この2年半後に奨励会三段リーグ編入試験に合格することになる。(規定の戦績とならず2009年に奨励会を再び退会)

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この後の鈴木大介八段と羽生善治王座のA級順位戦では、鈴木八段の初手▲7六歩に対し羽生王座が△8四歩と応じたため早石田の展開にはならなかったが、鈴木八段が勝っている。

鈴木大介八段は、2005年度(2004年度対象)に升田幸三賞を受賞している。

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渡辺明五段、村山慈明四段、戸辺誠三段といえば、当時「辛口三羽烏」、「酷評三羽烏」と呼ばれていたトリオ。

山岸さんの文章にも、なかなか面白いキャラクターとして登場している。

「酷評三羽烏」のあけぼの

 

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