森信雄五段(当時)の旅

将棋世界1990年11月号、森信雄五段(当時)の写真と文の「将棋のある旅」より。

 上海のホテルで、タバコ1カートン盗まれても気にならなかった。

 インドへ行って以来、盗まれる方も悪いのだという感覚を少し持っている。

 それに貴重品以外なら、かえって荷物も軽くなるし。

 蘭州で予約していた切符を取りにいくと、誰も知らないという。受け取り証を見せると、「誰の字だろうな。どんな顔をしていた?」と逆に質問される。

 蘭州でツアーバスに乗ろうと出向く。

「今日はバスが出ないので、明日の朝8時に来い」。

 私は声も出ない。昨日の朝も、全く同じセリフを言われたのだから。

 ウルムチのホテルで泊まろうとすると、「没有」。フロントの女性は素っ気ない。

 では食事したいので、荷物を預かってほしいと頼むと、「NO」。

「わかった、わかった、もういい」。

 リュックを背負って飛び出した。

 しかし、なぜかその夜は、同じホテルに泊まれることになる。(但し、ソファでフトンをかぶり寝たのだが)

 西安で、空港からホテルまでのタクシー。80元請求されて、押し問答。(相場は30元)

 5分くらい経ち、急に悲しくなって、50元払って黙って降りた。

 上海のレストランで、米飯が来ていないと言うと、「没有」。おまけに書き換えた伝票の数字は、減るのではなく増えている。そんなアホな。

 文句を言うと、何人か寄って来て、お金を請求してくる。

 私は、とうとう頭が爆発して、食べるのをやめ、金をたたきつけて外へ出た。(馬鹿だなあ)でもしょうがない。

 数多くのやさしさに触れ、悲しんだり怒ったりするのも、旅なのだから。

上海から西安へ

 大阪から上海へはわずか2時間。タクシーで40元(約1,200円)は、ちょっと高いが、市内へ入りホテルを探す。

 バンドの近く浦江飯店で、ドミトリー26人部屋、1泊20元(約600円)に決めた。早速、西安行きの切符を取りに行く。シンガポールの張君という青年が、手助けしてくれた。

 ただ、後で人から聞くと、親切を装って近づき、ごちそうさせる手口を使われたようだ。(忠告してくれる人がいた)

 別に構わないのに、次の日から顔を見せなくなった。

 まだ日本人らしい服装のせいか、あちこちでタバコを請求されたり、チェンジマネー(闇両替があるのだ)の声をかけられる。

 南京西路で散髪する。やけにていねいと思ったら、案の定、30元とぼられた。(せいぜい10元のはずだ)

 暑くてたまらないので、百貨店で涼もうとしたら、みんな同じらしく、人がウヨウヨしている。

 上海で2泊して、西安に向かう。24時間の列車の旅だ。

 上海駅で手荷物検査があった。日本の赤いパスポートはどこでも優遇される。

 宝鶏へ行く女医さんとその連れ、武漢へ出張という年配のおじさん、その3人が軟座(一等)の寝台車で同室。

 車窓の景色、特に南京をすぎるあたりの田園風景がよくて、あきずに何時間も見ていた。

 夜、筆談していて、「お子さんは?日本での収入は?」と聞かれて困る。

 隣の寝台に、日本人の女子大生のグループがいた。「今日は」と言うと、「あれっ、日本人だったのですか?」

西安から蘭州

 上海から直接蘭州だと40時間もかかるので、西安で一休みの途中下車だ。

 西安から蘭州までは、16時間。今度は硬座(二等)で寝台車でもないので、きつかった。座席も通路もビッシリで、身動きできない。(ほとんど眠れない)

 なのに中国の人は、まるで修学旅行のように、あっちこっちウロウロして話し込んだり、とてもにぎやかだ。

 私が日本人だと判ると、順番になって来て、物珍しそうに眺めたり、話しかけたり、何かと筆談で質問したりする。

 向かいの青年達は、ビール瓶を口であけて、ラッパ飲みしながら唄い出す。

 駅に着くと、果物や包子を買い込み、よく食べるなあと感心する。

 山や畑ばかりの光景に、パッと黄河が目に入ってきた。蘭州はもうすぐだ。

西安の男の子
西安の下町風景(上)、西安の城壁を背にしている人たち(下)
西安にて。休憩中の人力車のおじさん。

蘭州 イスラムのモスク

 黄河のそばで、麦わら帽子をかぶった写真の好きな、中国の人と知り合った。

 いい所があるので来い、と連れて行かれたのは、イスラムのモスクだった。

 インドに行ったとき、イスラム教徒の暴動に出くわしたことがあり、イスラムにはあまりいい印象を持っていない。

 モスクに入ると、モジャモジャヒゲのじいさん達がいて、「ハロー」と愛想よくて、拍子抜けした。

 麦わら帽の人が私を紹介してくれた。

「オー、リーベン(日本)」と、ごっつい手で握手を求められる。

 それから、イスラムを研究しているという中国の青年二人に案内されて、モスクを見学することになった。

 1階は宿舎、2階は礼拝堂、その上はがらんとしたホールだが、最上階はとても奇妙な空間のホールだった。

 天井の一ヶ所から光が射し込み、その下で声を出すと、ホール内に反響する。

 神聖にして不気味、まるでアラ―の神がそこにいるような…。

 蘭州には4日いて、あまり観光はしないで、街を歩き回ってすごした。

 一度、郊外方面のバスに乗ったとき、ちょうど満員で、女の車掌さんに早口でまくしたてられ、結局降ろされた。

 蘭州の黄河、山、雲をみていると、今にも孫悟空が現れるような世界なのに、実はとても都会なのに驚かされる。

 駅で、モスクを案内してくれた二人の青年とバッタリ出会う。どこへ行くのかと聞くと、ペンとメモを取り出し、「成都へ行きたいが、旅費がない」そう書いて、苦笑いした。

 どうするつもりなのだろうと思ったが、あえて聞かないことにして、別れた。

酒泉から敦煌へ

 蘭州から酒泉まで行って(列車で30時間、そこからバスで40分)1泊して、敦煌へ向かう。

 酒泉は、いかにも砂漠のオアシスといった町で、緑と空の青さが印象に残る。

 シルクのバザールも、夜遅くまで人出があって、にぎわっていた。

 敦煌までバスで8時間、砂漠の中を走って行く。砂漠といっても、石ころの原野と、少しばかりの草のはえている平原。

 バスは満員で、窓からの熱風に耐えながら、ひたすら時間がたつのを待つしかない。暑いうえにほこりもすごい。

 昼食の休憩の後でバスに戻ると、知らない乗客がいっぱい乗り込んでいる。

 タメ息をつきながら、それでも人をかき分けて、自分の席に戻った。(まだ、あと5時間もかかるのか…)

敦煌

 鳴沙山で夕陽を眺めていると、「センシンション!(森信雄)」催さんが、ジュースを持ってきてくれた。砂山をフーフー言いながら登っているとき、顔見知りになった女性。写真のお礼らしい。

 陽が沈む瞬間は神秘的で、ヨーロッパの若者が座禅を組んで黙想するのもうなずける。

 日本の大学生Sさんは、月の砂漠で一晩いろいろ考えて来ますと、奥の山に登っていった。(夜は冷えるし、風もあり、野犬もいるのに……)

 三輪車で町に戻っていると、途中で香港の少年達が乗り込んできた。まるで遠足で、にぎやか。運ちゃんはしっかり1元ずつ徴収した。

 シシカバブー(羊の串焼き)とビールで、今日はいい一日だったと一息つく。

 敦煌と言えば莫高窟で、仏教美術の宝庫。有名な壁画を前にして、不勉強を悔いた。英語や中国語の説明ではさっぱり判らない。

 日本語のガイドを見つけて、ついていく。研究員の特別ガイドらしくて、とてもていねいで判りやすい。

 昼休みが長すぎるせいか、午後になると見学者は少なかった。

 敦煌には4日滞在して、観光のとき以外は、近郊の農村を、歩いたりレンタサイクルで回ったりする。

 何よりホテルが1泊7元(約200円)。

 ただ香港人が泊まっているので、深夜でも騒がしいが。

 敦煌を出てバスで柳園へ(3時間)。

 そこからトルファンへは列車で14時間だ。硬座なのできついが、中国の人は相変わらずの、お祭り騒ぎ。筆談のあとは、トランプに加わった。

敦煌での農作業光景

トルファン

 午前中に千仏洞、高昌故城、アスターナ古墳などを回って、午後は葡萄の樹の下の長椅子でボンヤリしていた。

 何しろトルファンの暑さは有名だ。

「車でなくって、ロバ車に乗って夕陽を見に行きましょう」

 私の似顔絵もかいてもらった女性、Mさんの提案に賛成する。

 5人集まり、ロバ車と交渉して30元で、5キロ先の交河故城まで行くことになった。

 トルファンの日の入りは10時なので、まずバザールで腹ごしらえして(羊肉のスープ)出発したのは8時。

 私達の乗ったのは6才の若いロバで、初めから足取りが重くきつそうだった。

 ロバ車のウイグル族の少年は、かけ声をかけ、容赦なくムチを打つ。

 かわいそうなどという感傷は無用の、すでに一人前のプロの手つきだ。

 ロバはときどき走り出すが、すぐ息切れしてペースを落とし、歩き始める。

 少年のムチが折れて、取り換えた。

 休憩してロバに水を飲ませるが、変わりなくて、ときどき悲鳴をあげる。

 いったんみんなロバ車を降りて、歩き始めた。少年は困った顔をして、戻って乗れという合図をする。

 ようやく交河故城に着いたとき、すでに陽は沈んでいた。

 夕焼けの残照を見ながら、持ってきたスイカを分ける。少年は責任を感じたのか、食べようともせずに、ロバの手入れに専念していた。

 あっという間に空は暗くなり、風も出て来た。(帰りも大変だぞ…)

 途中で、ロバ車の片輪がパンクした。

 闇の中を走り続けて、ようやく見覚えのある村に着く。少年の仲間が迎えに来ていて「パンクしているので、別のロバ車に乗ってくれ、余分な金はいらない」

 少年に30元渡して、別のロバ車に乗り換えた。そのときだった。

 ロバ車の少年達の間で、殴り合いのケンカが始まった。代金の取り分をめぐっての諍いにようだ。

 見てはいけないものを見てしまったが、これは少年達の問題だと、無視する。

 深夜になってようやくホテルに戻る。

 翌日、あの少年の姿はなかった。

 陽気なウイグル族の、他のロバ車の面々が、いつものように「ロバ車乗らないか、安いよ」と声をかけてくる。

 トルファンに4日滞在。それからバスでウルムチに向かう。(4時間30分)

 ウルムチから西安までは、飛行機で戻り、西安に4日いて、再び上海へ。

トルファンの交河故城にて

中国象棋

 街を歩いていて、人だかりがあってのぞいてみると、たいてい中国象棋だ。

 紙の盤と汚れた駒で、ヤジ馬が必ず口を出し、ときには勝手に駒を動かし、まるで縁台将棋そのもの。

 たいてい路上だが、列車の中やホテルの通路、屋台の横などさまざま。

 ウルムチや西安などの都会では、机に何面か並べて、有料かなと思う所で、板盤ときれいな駒を使っていた。

 私はたった3局しか指さなかったが、もっと指せば良かったと悔やむ。

ウルムチ駅の下での光景

帰国して

 中国から帰り、何もする気が起きなくてボーッとしているとき、一通の手紙が来た。帰りの上海の空港でバッタリ出会った、Nさんからだった。

「まさか、あんなところで会うなんて、誰が予測できましょうか。私の隣の青年のところに、やあやあと言って坐ったヒゲ面のおっさんが、どうも森さんに似ている…。中略 とにかく貴方がいまだに中国をほっつき歩いているのをみて、やっぱりなあと中国を愛するもののみの覚える共感がわきおこり、うれしくも又うらやましくも思いました。もう困難に耐えて、広い中国を駆け巡るには、少々古ぼけた自分を情けなくも思いました。またどっかでお会い出来る日を楽しみにしています。祝你身体保重!」

 うわべっつらしか撮れなくて、あんまりいい出来ではなかったが、2,000枚近い写真の一枚一枚を見ていると、よく歩いたなと思う。まるで、トルファンのロバのように…。

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上海(2泊)→(列車24時間)→西安→(列車16時間)→蘭州(3泊)→(列車で30時間+バス40分)→酒泉(1泊)→(バス8時間)→敦煌(3泊)→(バス3時間+列車14時間)→トルファン(3泊)→(バス4時間30分)→ウルムチ→(飛行機)→西安(3泊)→上海

という、西安以降はシルクロードの中では天山北路と呼ばれるルートに沿った旅程。

トルファンやウルムチは、500kmほど行けばカザフスタンやキルギスに着いてしまうような場所。

トルファンは中国で一番暑いと言われており、西遊記に出てくる火焰山もトルファンにある。

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「車窓の景色、特に南京をすぎるあたりの田園風景がよくて、あきずに何時間も見ていた」

どれほど時間があったとしても、このような旅をできる人はなかなかいないと思う。

10数時間の硬座(二等)の列車、なかなか変わらないように見える車窓からの風景、などを楽しめなければ、2~3日で挫折してしまう。

まさに、森信雄七段ならではの旅だったと言うことができるだろう。

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「将棋のある旅」というタイトルになっているけれども、将棋(象棋)の話は少しだけで、ほとんどが紀行文であるところが、とても面白い。

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写真は16点あるが、このブログ記事で載せたのはそのうちの8点。

末尾で写真家の中野英伴さんが講評を述べている。

 写真は対象に対する理解と愛情に始まり、対象の姿を通して、その心・本質を表現するものです。そして自分の心、血の騒ぎが加えられた時、個性のある写真が成立します。森五段の写真をこの観点から読むと、静かに熱く、燃えています。

大崎善生さんの「編集後記」でも。

「子供が特に素晴らしい表情ですね」。写真家の中野さんは森五段の写真(本人は作品という?)を見て感心しきり。「森さんの心の優しさが反映しているのでしょう」とプロをうならせました。もう一人、「大したもんだよ」と手放しのほめようなのが、弦巻カメラマン。

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近代将棋1991年1月号、池崎和記さんの「福島村日記」には、11月の将棋の日に、関西将棋会館4階で森信雄五段(当時)の中国写真展(現像、写真の引き伸ばし代などは森五段の自前)が行われたと書かれている。