作家で前・将棋ペンクラブ会長の高田宏さんが肺がんのため11月24日に亡くなられた。享年83歳。
告別式は近親者で営まれたという。喪主は妻、喜江子さん。高田宏さんの長男は高田尚平六段。
——–
将棋ペンクラブ会報2010年春号の新春対談(ホスト:木村晋介将棋ペンクラブ会長、ゲスト:高田宏将棋ペンクラブ前会長)より。
出身地は大聖寺、出生地は京都
木村 高田さんは石川県のお生まれですか。
高田 京都で生まれました。石川県には小さい時に越してきました。
木村 ずいぶんと石川とのつながりがお強いですよね。
高田 石川県の南のはずれ、今は加賀市と呼んでいますが、そこの大聖寺にいました。
木村 私は日本酒が大好きなもので、石川というと天狗舞、手取川。
高田 それから菊姫。
木村 石川の三大銘酒と言ってもいい。
高田 そうですね。いい酒が結構あります。
木村 私が大吟醸という酒を初めて飲んだのが今から27年前なのですが、それが菊姫でした。その時は美味しくてとてもビックリしました。
高田 その頃、大吟醸なんて滅多になかった。菊姫の大吟醸は横綱級ですね。
木村 私は、味は菊姫、名前は天狗舞と言っているんですよ。天狗が舞うというネーミングがいいです。杜氏の中三郎さんは今もお元気で作っておられて「中三郎」という天狗舞の大吟醸も素晴らしいんです。
高田 菊姫の杜氏から移られたんですよね。
木村 高田さんは、京都でお生まれになって大学も京都でありながら、石川とのご縁が深い。
高田 3つ4つの頃から高校を出るまで大聖寺でしたから、故郷は大聖寺です。出身地と聞かれればためらいなく石川県と答えます。困るのが出生地を聞かれた時で、京都と言わなければ嘘になってしまう。
木村 私はいつも長崎出身と書いているのですが、3つまでしか長崎にいなくてその後は東京なので、本当は東京出身なんです。だけれども長崎出身と言いたいんですね。自分の生まれ故郷に対する憧れもあるし、原爆が落ちた年に生まれているし。
高田 木村さんは1945年のお生まれですか。
木村 はい、1月生まれです。ですから高田さんとは学年で一回り違うことになります。
高田 学年で申年同士だ。
木村 館長を務められている九谷焼美術館も石川県ですから、京都生まれということを忘れてしまうくらい石川とのつながりが深いですよね。
高田 僕は京都が嫌いですからね。学生時代、引越し好きだったもので下宿を何軒も渡り歩いたのですが、どの下宿も京都っぽい気位の高い奥様がいて田舎者と見下す。一軒だけは朴訥としたおばさんがいて良かったけれど。
木村 京都が世界の中心ですものね。
高田 この前の戦争といえば応仁の乱ですから。
木村 私は落語を一所懸命やっておりまして演目も18になりました。今度は「らくだ」をやってみようということになっています。
高田 18もすごいですね。「らくだ」は長い噺でしょう。
木村 それを無理矢理短くするようにしているのですが、その時に派手な衣装で出てみたいんですね。それが華やかな色の九谷焼のイメージで。九谷焼の模様の着物でやってみたいんです。
高田 それはぜひ、九谷焼のためにもお願いします。九谷焼美術館には二、三日前にも行っていましたが、もう老いるばかりで、東京へ帰ってくるとヘトヘトになって、昼から寝ていました。
木村 石川へは飛行機ですか。
高田 飛行機は好きではないので以前は電車でしたが、今はさすがに飛行機です。
木村 どうして飛行機がお好きじゃないんですか?
高田 単純に怖かったんですね。
木村 私は高所恐怖症ですが飛行機は大丈夫です。
高田 そういうことはありますね。僕も高所恐怖症は多少あるけれども、あまりない。飛行機の窓から下を見るのは好きなほうです。でも飛行機という機械に対する信頼感が非常に少ないわけ。
木村 わかります。あんなものがなんで空を飛ぶのか冗談じゃないよという感じですね。
高田 機械は必ず故障すると思いますし、パイロットは人間だから必ずミスをする。朝、夫婦喧嘩をしてくることだってある。だから何が起るかわからない。
木村 運行距離との関係でいうと飛行機は事故率が低いんですね。でも飛行機は人間にとって無理なことしていますからね。
高田 体力が落ちたから、今は贅沢を言っていられない。地上を行くのは贅沢なことです。
木村 私は子供の頃から飛行機に乗りたかったのですが、初めて乗ったのは30才の時で八丈島でした。25歳で弁護士になって初めて相談に乗ったのが八丈島の方で、この事件はすぐに動くと相手も動くという危ないものでした。5年経てばこちらが有利になるので、依頼者には何もせずに5年待つようお願いしたら、5年後に連絡がきて、それで八丈島の裁判で勝ったんです。そのときが初めての飛行機です。
高田 その時に飛行機が飛んでいましたか。
木村 YS11で6便飛んでいました。八丈島が奇怪な島に見えて、すごいところに飛行機は来るものだと思いました。嬉しくて仕方がなかったです。高田さんは八丈島の奥の青ヶ島を舞台とした「島焼け」を書かれていますね。
高田 青ヶ島は八丈島から67キロ南にあって行くだけでも大変な所でした。
木村 八丈島まで行って、それから船に乗らなければいけませんからね。
高田 ヘリコプターもあるんですよ。伊豆七島をヘリで結んでいて青ヶ島には来たり来なかったり。風速26mを超えると飛ばなくなる。6人乗りでした。
木村 6人でも島の人口からしたら大したものですね。
高田 そう、百九十人くらいですからね。
木村 青ヶ島は青酎という独特な焼酎を作っていますね。
高田 アルコール度数が高くて、密造の青酎などは80%あります。文学賞
木村 私が高田さんを羨ましいと思うのは、高田さんは読売文学賞、大佛次郎賞、亀井勝一郎賞など賞を沢山取っておられるでしょう。私は今まで賞というのを取ったことがないのです。
高田 文学賞は数が多いですから。
木村 文学賞いいじゃないですか。
高田 木村さんが書かれるのはもうちょっと堅い本でしょう。テーマとしては法律とか。
木村 いえいえ、夜の法律とかほとんど軟らかい内容です。今までの弁護士の世界からいったら考えられないような本ばかりです。一回だけ賞を取ったのは、弁護士会の運動会の三千メートル走でした。私は中学・高校の頃、新聞少年をやっていたので、他の弁護士が敵うわけがない。検事総長杯というのをもらいました。
高田 それはすごい。
木村 これが唯一の賞です。本業では賞がほとんどないんですね。本当は物書きとして賞を取りたいです。それで今、小説に挑戦しています。
高田 これは賞の可能性がグッと出てきますね。
木村 私の女友達が死にまして、死に水を取ったのですが、彼女の眼が揺れているんですね。揺れながら私のことを見ている。彼女の視線から物を見たときにどのような世界があったのかということを書き始めてみたら、自分でも泣けるくらいのいい文章になりまして。連載を三、四回やってあとは書き下ろして単行本にしてしまおうと思っています。一応ノンフィクションなので大宅壮一に行けるのかもしれない。
高田 結構ノンフィクションは賞がありますよ。
木村 泣く人が多ければ、ひょっとしたら直木賞の狙えるかもしれない。
高田 ノンフィクションだから直木賞はちょっと無理だ。
木村 本が出る時に高田さんに帯を書いていただきたいです。ゲラを呼んで三人泣いています。
高田 もうゲラになっているんですね。
木村 「本の雑誌」で連載がもうすぐ始まります。転身
木村 高田さんが作家として専業になったのはいつですか。
高田 1984年の元日から浪人になりました。
木村 浪人になる前と後とはどういうことですか。
高田 その前5年くらいは、物書きとサラリーマンの二足の草鞋を履いていました。安全圏にいたんですね。結構いい給料でしたから。
木村 PR誌ですよね。
高田 正社員で編集もやっていた。でもサラリーマンを辞めると生活が厳しくなります。51歳の時でした。
木村 51歳だと大勝負ですね。
高田 あと9年勤めたらもらえるはずの給料と退職金、大雑把にいえば億のお金を捨てたわけです。それでも毎日会社へ行かなくて済むし、毎日が日曜日がいいと。
木村 サンデー毎日ですね。お子さんは何歳の時ですか。
高田 尚平(プロ棋士六段)が21歳、雄太(画家)が17歳の時です。僕は15歳までは扶養義務があると思っています。
木村 随分早いですね。
高田 昔の元服ですからね。元服して一人前になったのだからその後は自分の甲斐性で生きていける。僕の扶養義務はとっくに終わっている。
木村 すごいなあ。
高田 妻もそれには賛成してくれました。貧乏するぞと言って本当に貧乏しました。賞の一つや二つ取っていても仕事が来るわけではない。それにせっかく取った賞の賞金が翌年から二倍になったりして。とにかくペン一本で食べていくのは相当に大変です。
木村 賞さえ取ればということではないんですね。
高田 そうですね。
木村 高田尚平六段には高田さんが将棋をお教えになられたのですか。
高田 一番最初だけです。息子が小学5年の頃のある日曜日、暇だったので何かして遊ぼうということになり、将棋でもやってみるかと。当時はまだ近所に駄菓子屋があったので、将棋の駒を買ってきて指しました。ところが子供の頃にやった記憶が薄れていて、銀の動かし方を忘れている。これでは駄目だと思い本屋で将棋の入門書を買ってきて、駒の進み方を思い出しました。最初は僕のほうが断然強くて歩三兵でやつけたからね。でも、あっという間に追い越されました。
木村 私も孫に教えているのですが、それくらいでやるのはすごいですね。
将棋の中の文芸
木村 将棋ペンクラブ大賞の選考委員をやらせていただいて、いい観戦記が読めて、いい本が読めて、本当に良かったと思います。高田さんが選考委員をされていた頃も素晴らしい作品が選ばれていましたが、文芸と文芸でないものの境界はどのようになるのでしょうか。
高田 例えば、将棋ペンクラブ大賞になった大崎善生さんの「聖の青春」はまさに文芸です。
木村 私が今度の小説を書く時に思ったのは、自分が女性の死に立ち会ったわけですが、自分が見た女性を書くのではなくて、死にかけている女の目から見たことを書くのが文学になるのではないかということです。自分の目から見て、病院のベッドに女性が横たわっていたと書くと、それは観戦記であって文芸にはならない。横たわっている女の目から「この人とはいろいろなことがあったな」という想いも含めて書いていけば文芸になる。そこが観戦記と文芸を分けるところではないかと思いました。単なるノンフィクションではない、文芸としてのノンフィクションというのでしょうか。
高田 文芸としてのノンフィクションということであれば、将棋ペンクラブ大賞の中では石橋幸緒さんの「生きてこそ光り輝く」です。「聖の青春」はノンフィクションだけれども、ノンフィクションの枠をはるかに超えた作品です。だから将棋ペンクラブ大賞はいい作品に恵まれています。
木村 ノンフィクションではあるけれど、講釈師見てきたように物を言い、ということですね。講釈師の世界までいかなければノンフィクションは文芸にならない。
高田 そうですね。嘘と誠の見分けがつかなくならないといけない。ここは誠でここは嘘だと見えてしまったら生煮えです。嘘か誠か、誠か嘘か。将棋ペンクラブ大賞を受けていただいた本は皆いい本だった。他の賞と肩を並べても胸を張れるいい作品を選んでいます。
木村 大手出版社の賞の担当の方の話を聞くと、「該当作品なし」というのをやりたくない半面、賞のレベルを保つために「該当作品なし」もやむをえないといいます。このへんはいかがでしょう。
高田 「該当作品なし」が2年連続はありえませんね。それは、ほとんどその賞の存在価値がなくなります。
木村 自分の文化を否定するようなものですからね。作品のプロセス
木村 私は今、古今東西のミステリーを中心とした書評を連載しています。法律・捜査の観点からトリックその他の矛盾点を指摘しています。こういう事件が起った場合は警察は必ずこういう捜査をするから小説のこの部分は起りえないというような。
高田 読者としてはそういうことを教えてもらえると嬉しいですね。僕も若い頃は早川ミステリーを、ほぼ出るごとに全部読んでいました。
木村 早川ミステリーは私も読みました。アメリカの話で登場人物が多いしカタカナでわからなくなるんですよね。
高田 そう、わからなくなる。若い頃はしっかりとわかっていたのだけれども。
木村 私は逆に今はわかるようになりました。この間は百七十人の登場人物の本を読みましたし。読み慣れてきたんですね。若い頃は推理小説を読み終わっても犯人がわからなかった。
高田 よくできたミステリーというのはものすごい価値があります。それこそ漱石なんかどうでもいいやという感じになります。早川のミステリーもSFも全部読んだけれども、黄金時代は1950年代ですね。
木村 アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」、「オリエント急行殺人事件」、レイモンド・チャンドラーの「長いお別れ」も含めて欠陥があることを指摘しました。作家の知識がなくてここが間違っているというのではなく、こういうことをやった場合は必ずこういうことは起きないというような指摘です。
高田 アガサ・クリスティはやっつけ対象でしょう。
木村 ええ、面白くやつけています。そのことによって作品の質が下がるかというと、そうではないです。弁護士が付箋を付けながら裁判記録を読むように本を読んだらこうなったということです。例えば殺人事件で、犯人が犯行時刻を隠すために時計を2時間遅らせてハンマーで打ち壊して止めた。そして1時間後に警察が駆けつけた場合、3時間の差ができるかというとできないのです。なぜかというと、死後硬直の問題があって検死官が調べれば、時計の時刻と犯行時刻は違っているということになるからです。ところが物語はそれと関係なく進んでいく。作家の考証不足なのかもしれませんが、そういうふうに実際の法律的な捜査のありかたと小説は違うと斬っているだけです。私がけなした作品は、その後どんどん売れているようです。高田さんは作品を書く時に、どういうふうに考証されていますか。調査に割かれる時間は大変なものでしょう。
高田 百調べて使うのは一もないですね。例えば僕が古九谷のことを扱った「雪 古九谷」というのがあるのですが、これは全体が一種のミステリーになっています。その時に加賀藩の資料をどれくらい読んだろう。使えたのは千に一つでした。
木村 調べたことを皆書こうとするとろくな物にはならなくなりますね。私が事件を請ける時も、いきなり請けずに、調査費用だけいただいて調査として請けます。依頼者の言っていることがどれだけ正しいか、相手方が話し合いに応じるつもりがあるか裁判まで徹底的に争うつもりなのか、そういうことを含めてまず調査から入るんですね。
高田 なるほど。
木村 だからその中で無駄なことはいっぱいあります。調査の実費はご本人に負担していただく。だけど、そのことが事件を作品として考えた場合に成功させる秘訣なんです。調べたことを全部書く作家は駄目ですよね。
高田 駄目ですね。
木村 書きたくはなるけど、読む人がそれを読んで面白いかどうかを考えて絞り込まなければならない。
高田 調べることは大変だけれども、やはり捨てる勇気がないといけませんね。
木村 焼き物も似たところはありませんか。練ったものを全部作ってしまうわけにいかないので、ずいぶん壊して壊して本当にいい物だけを残すという。
高田 そういう人は少ないけれど、そういう人がいないと駄目です。一窯何百という焼き物を焼いて、気に入らなかったら全部壊してひとつも残さないというのは現代ではあまり考えられませんが、でも、昔はいたと思います。僕はフィクションの中では、壊しただけではなくて、その破片が後世に残っては困るから、俵に詰めて山越えして、浜に出して、船ではるか沖合いまで行ってそこに捨てたと書きました。でもそれは、可能性として十分にありうると思います。
木村 棋士の人たちも、ある局面でいろいろな読みをすると思うのですが、無駄になるかもしれないけど沢山の手を検討している。その中で初めに考えた手が結局正しかったということもある。直観精読というのでしょうが、そういうところはありますよね。
高田 それはそうでしょう。最初に閃いた手が4時間の長考の後に指されることもあるでしょう。そこで時間を使って後で1分将棋になることがわかりきっていながら膨大な時間を費やすというのは、対局が作品とすれば、作品を作り上げていくプロセスとして非常に大事なことではないでしょうか。
木村 私も高田さんの作家としての話をお聞きしながら、そこに頭がいきました。高齢化社会の切り札
高田 これから高齢社会でしょう。高齢社会にとって将棋はすごく大事だと思っています。なぜかというと、僕の父親は81歳で死んだのですが、70代の半ばに一時的に呆けてしまったんですよ。目の前に誰もいないのに人がいると思ってとっくに死んだ人を相手に喋っていたり、夜中に徘徊をやったり、これはいよいよだなと思って大いに心配しました。ところが数ヶ月で治ったんです。その時に何が治してくれたかというと囲碁です。親父は囲碁が好きで、呆ける前は近くにある敬老会館で毎週囲碁をやっていました。そこで甘い敬老会館何段というのももらっていました。呆けた後、囲碁仲間のおじいちゃんが「行きましょう高田さん」と親父を誘いに繰り返し来てくれるわけです。そして、ついに根負けして行きました。呆けているから手合いが付いても打てない。でも見ているうちにどこかで繋がったんですね。そして打ち出したらあっという間に正常に戻った。
木村 アルツハイマーでなければありえますね。
高田 そう、気質的なものではありませんでしたから。それで完全に戻って81歳で死ぬまで全く正常で生きたわけです。これは将棋も囲碁も同じ効能があると思います。論理思考がいるわけでしょう。
木村 アルツハイマーの場合でも、部分的にアルツハイマーで残りはそうでない場合は、その部分は戻せるんですよね。アルツハイマーが絶対に戻らないというのは間違った神話です。
高田 思ったのは、囲碁というボードゲームのおかげですね。
木村 囲碁と将棋を比べた場合に、将棋の素晴らしさというのは王様が最後は死ぬことです。自分の王様が死ぬという時が来るわけですね。
高田 あるいは死ぬしか道がないと。
木村 必至という状態が来るわけです。その時に逆転できるときもあるかもしれないけれども、死を悟らなければいけない。そういう場面があるのが囲碁と将棋の違いですね。終末の自分の迎え方をどうするか。
高田 基本的な性格の違いはあるけれど、高齢化社会で老人が、男も女も最後を生きていく時の、ある歯止めになるのが将棋とか囲碁だと思います。この間、妻と二人で中国の青島へ二泊三日で行ってきました。
木村 青島ビールですね。ドイツのビールの技術移転。
高田 青島ビール工場のある時期の十数年は工場長が日本人だったんです。日本が支配していた時代。それは別として、あのへんの公園の木陰で中国将棋をやっているんですね。中国将棋を年寄りがやっていて活き活きとしている。あれは中国の政治体制とは別で幸せです。老人が幸せに生きているという感じがあります。歳をとって何もすることがないのは悲劇です。将棋でも囲碁でも麻雀でも相手が必要です。一人じゃない。
木村 本当にそう思います。今日は貴重なお話を有り難うございました。
——–
高田宏さんは、私が尊敬する人だった。
その経緯などについては過去の記事で書いている。
年が明けて落ち着いたら、高田宏さんの思い出などを書いてみたいと思う。
謹んでご冥福をお祈りいたします。