「見落とし」と「見損じ」

近代将棋1989年10月号、田辺忠幸さんの「将棋界 高みの見物」より。

 A級順位戦の観戦記に「塚田、見損じの敗戦」という見出しがあったので、毎度のことながら、これはこれはと思った。なぜなら、将棋界ではあまり「見損じ」とはいわずに「見落とし」もしくは「見落ち」というからだ。

 どちらでも似たようなものだから、一向に構わないわけだが、将棋にどっぷり漬かっている人間としては、「見損じ」は囲碁界の言葉という認識を消し難い。

 将棋の記事に「見損じ」と書くのは、どうやら碁の強い人のようである。河口俊彦六段はれっきとした将棋指しなのに、碁もべらぼうに強いので、よく「見損じ」とお書きになる。

 面白いもので、同じことを表現するのに、将棋界と囲碁界では違う場合がある。将棋は「泥仕合」で、囲碁は「闇仕合」。将棋は「対局」を多用するが、碁では「手合」が優勢である。従って「対局料」「手合料」となる。それでいて、試合の日程を調整する部署は両方とも「手合係」だから不思議だ。

 ところで「見落とし」と「見損じ」では、幾らかニュアンスが違うような気もするが、そんなことを詮索しても始まらない。ただ私個人としては、将棋の記事に「見損じ」を使わないことだけは確かである。

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美味しいオムライスを食べたくなり、洋食店を探して歩いていたら、道に開いていた大きな穴に気づかず、穴に落ちてしまった。

これが見落とし。

美味しいオムライスを食べたくなり、初めて入る良さそうな洋食店に入ったら、とても不味いオムライスだった。

これが見損じ。

「見落とし」は、存在さえも気がつかなかったこと、「見損じ」は、存在には気がついていたけれど考え違いをしていたこと、のようなイメージでとらえていたが、調べてみると、「見損じ」の意味の一つに「見落とし」が含まれているようだ。数学的に言えば、「見落とし」は「見損じ」の真部分集合。

どちらにしても、見落としや見損じ、将棋でも実生活でも、あまり縁を持ちたくない言葉だ。