羽生善治五冠(当時)のプロ感覚からすれば非常識きわまりない絶妙な手順

将棋世界1997年4月号、真部一男八段(当時)の「将棋論考」より。

 2月14日、羽生王将が4勝0敗のスコアで谷川竜王を降し、王将位を堅守した。谷川の調子が上向きであっただけに、この結果は意外でもあったが、今更ながら羽生の強さには舌を巻いた。

 何か妖気漂う感すらある。

(中略)

 確かに羽生の将棋には常識を超えた部分があり、書き手はそれを羽生マジックと囃し立てるが、本人はなんでもないような顔でケロッとしている。ここいらあたりの神経も並ではない。

羽生1

 A図は王将戦第4局のハイライトシーンである。ここから羽生は▲8三馬△同飛▲7四銀△8二飛▲7三銀成△同桂▲7四歩△6五桂▲7三歩成△8一飛▲6三と(B図)。

羽生2

 大鉈のひと振りであっという間に勝勢を築いてしまった。この一連の手順がプロ感覚からすれば、非常識きわまりないのである。たった一枚のと金を得る為に、後手陣の右翼であくびをしていた角銀桂を、きれいに捌かせてしまっている。しかもその元手となったのは、誰が見ても攻防の要駒である5六馬である。こんな筋悪の手をプロは読まないのである。その証拠に谷川も一手前の△7五同歩にたった2分しか消化していない。ここにプロの思考法の癖を見る事ができる。手を読む際、過去脳に蓄積された厖大な量の情報、知識があるお蔭で秒読みに追われても、そこそこの手が指せるのであるが、その半面、知らず知らずその知識に囚われてしまう事もあるのだ。100回に1回しか成立しないような手は考えの中から省かれてしまうのである。これはプロの思考法に限らず、ヒトの脳が持つ癖のようなものだろう。

 私が奨励会に入った30数年前、当時幹事をやっておられた故芹沢博文九段に桂馬が敵陣の三段目まで到達したら100回のうち99回は成るのが正しい、故に成らずとする手は読まないでよろしい。と指導された覚えがある。それもひとつの見識であり、筋の良さでは誰にもひけを取らなかった芹沢流の面目躍如ではあるのだが、超一流と呼ばれる人達の将棋には、そのもうひとつ先の何かがあるように思われる。芹沢はこうもいう、少年時代の中原永世十段を評して「中原は俺が読まない筋の悪い手でも必死になって読んでくる」と、人のもうひとつ先を行く姿勢が奨励会時代から中原にあった証であろう。

 芹沢の指導法は並の者をあるレベルにまで引き上げるのには有効である。

 あまり才能のない者が常識外れの手まで読んでいては、それこそ時間がいくらあっても追いつかない。それはコンピュータにまかせておこう。

 ところが羽生は他人には非常識に映る手に対して別のアンテナを持っているようである。100分の1の方が先に見えるという場面があるらしい。それを私は妖気といい、本人は狂気のようなものを薄々感じるのかも知れない。

 羽生とはタイプが異なるが、升田幸三の常識もまた規格外のものであった。

(以下略)

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A図からの▲8三馬~▲7四銀は、昭和の道場にいた一癖も二癖もありそうなアマチュアの振り飛車党のおじさんが好きそうな強引な手順だ。

しかし、プロから見れば、世田谷区成城に所有している自宅を売却し、そのお金で買ったダイナマイトを誰も行かないような山奥の土地で爆発させるようなもの。

限られた時間の中で常識外れの手まで読むということは、どのような分野でも非常に難しい。

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常識外れということで調べてみると、ドンキホーテの創業会長兼最高顧問である安田隆夫さんの記事にたどり着いた。

ドンキホーテ自体がそれまでの常識の逆を行って大成功したわけだが、学生時代から常識の逆ばかりだった安田隆夫さんの生き方が面白い。

常識と戦い続け、流通革命に挑む / ドン・キホーテ(ドリームゲート)