愛すべき金易二郎名誉九段

将棋マガジン1984年1月号、清水孝晏さんの「思い出の棋士たち」より。

金易二郎名誉九段

 昭和34年の秋、湯河原での対局(高島一岐代-二上達也・九段挑戦者決定戦)が早くおわったので帰り支度をしていると金先生も一緒にというので連れ立って駅にきて、それぞれキップを買ったまではよかったのだが、いざ改札を通ろうとしたら「キップがない!」と金先生。電車がくるので”確かに横浜まで買ったはずなのですが”と駅員に交渉したが入れてくれない。ガマ口を開けても見当たらない。あっちこっちと探すのだが、あわてているから余計見つからない。”あぁ、いっちゃった!”といったとたんに折りたたんだ紙幣の間からポロリとキップが顔を覗かせる。

”まあ、一台見送ったって”とホームにあがったら”ワァー”と、また金先生。「ゲタじゃ、ゲタ。これは私のではない」裏を見ると「桃山」の焼印。急いだので宿の庭下駄を履いてきてしまったのである。

 そんなことから金先生には必ず芹沢さんがおともするのが常であった。

 東京・渋谷の「初波奈」における名人戦の帰り、玄関先にときならぬ女中さんたちの閲兵式。点呼もどきに「あんたじゃないし、こちらでもない」と一人一人顔を覗き込んでいるのは金先生。なんでも羽織を預けたというのだが、大勢の出入りでわからなくなったというのである。「でも先生、目の保養となったでしょう」というと「どれもが同じような顔だった」と無邪気なもの。

 夢中になると他のことは一切忘れてしまうのである。「だから、これじゃ」と、首に吊るした東急全線パスを見せてニッコリとする金先生だった。そんな金先生も将棋にはきびしかった。

 女流将棋が盛んになって蛸島初段が誕生したのを記念に金先生と蛸島初段の飛車落ち戦を将棋世界で企画したときのことである。終盤になって金先生”困った困った”を連発。のぞきこむと、それほどの局面でもないのに。いま考えてみると金先生は”勝ってはわるい”と悩んでいたらしい。ところが蛸島さんも苦しいものだから2枚替えして王手飛車をかけてきた。とたんに「いかん!プロは負けてもそんな手を指しては!」と金先生は叱るのだった。

 もう羽織・袴で信玄袋を持った老人はめったに見掛けなくなったが、金先生はそれが絵になる人で、将棋の立ち会いで出かけたときは終日盤側を離れないので、かえって対局者が心配するほど将棋の好きな先生だった。

(以下略)

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金易二郎名誉九段(1890年-1980年)は1934年から1936年まで日本将棋連盟会長を務めており、棋士番号1番、人格者としても知られていた。

東京側と対立していた時代の阪田三吉名人・王将が東京側で唯一信頼を置いていたのが金易二郎名誉九段だった。

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中原誠十六世名人の師匠の高柳敏夫名誉九段は女婿であり、同居をしていた。

そういうわけなので、金易二郎名誉九段は内弟子だった時代から中原十六世名人を実の孫のように可愛がっていた。

中原囲いが編み出されたのも、金易二郎名誉九段と中原少年の対局で現れた囲いがヒントとなっている。

中原囲い創世記

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金易二郎名誉九段は秋田県の出身で、ずっと秋田弁だったという。清水孝晏さんの文章に出てくる金易二郎名誉九段の台詞は標準語の表記になっているが、実際にはそうではない。

秋田弁だったために、対局中に考えられないような握り飯が出てきたこともある。

対局中に出てきた恐ろしい握り飯

仙台に戻って感じることは、方言を話す人が数十年前と比べてほとんどいなくなったということ。

皆が方言を使う必要は全くないけれども、方言は貴重だと思う。

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金易二郎名誉九段のエピソード

美学に殉じた棋士(前編)

 

 

「愛すべき金易二郎名誉九段」への1件のフィードバック

  1. 芹澤九段の「指しつ刺されつ」に描かれていた金先生と中原少年の話しが好きでした

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