将棋世界1989年10月号、内藤國雄九段の「懸賞詰将棋&エッセイ」より。
塚田泰明八段と順位戦を指した翌朝、連盟のテレビで美空ひばりの死を知った。
ひばりはどんな歌でも歌える人であったが、哀調を帯びた歌に天下一品の味があった。
かつて私は週刊文春に「初恋の人」と題して美空ひばりを書いたことがある。
奨励会時代、2つ年上の天才歌手に淡い想いを抱いていたのである。
もっとも、当時は力道山とか三橋美智也とか、詰将棋とか他にも魅了するものがあったから、ひばり恋人時代はそう長くはなかった。
公演を追いかけまわすということもなかったから、熱烈なファンでもない。
しかし今、ひばり急逝を聞くと、心にポッカリ大きな穴が空いたような気がする。
ひばりという名は歌の代名詞のようになって、ずっと私の心の中に存在していたのである。時折、素敵な喉を聞き、やはりひばりは違うなあと感心する、と同時に安心もしたのであった。
裕次郎が亡くなった時、飲み仲間に「俺の青春もこれで終わった」と嘆いてみせたのがいて、酒がまずくなったことがある。
裕次郎には何も感じなかった。感心も共感も、個人の趣味の問題だろうが、評判の”いかす”さも、私にはまるでピンとこなかったものだ。
しかしひばりは違う。ずしんと胸にひびく。「誰がために鐘は鳴る」という言葉が、実感として迫ってくる。
ひばりがティーンエイジャーのころ、将棋を覚えて、しかもかなり強かったということをテレビの追悼番組ではじめて知った。
家庭教師をしたという人の話で、「花札で負かされるものですから将棋を教えてみた。ところがすぐ強くなって、私と対になった、対ですよ」 その人は現在三段、当時は段を持っていなかったがそれでも強かった。だから”対”という言葉に力が入ったのである。
「あの人は天才でしたねえ」しみじみとこうつけ加えた。
そういえば、少女時代のひばりは今みても可愛いだけでなく、実に利発そうな顔立ちをしている。そして今回初めて気がついたのだが、亡くなる前の最後のコンサートでも、よく見ると化粧の下に少女時代の顔立ちがそのままひそんでいる。女王の仮面の下に、利発で可愛い面影を見出したのは、一寸心ときめく発見であった。
何人かの歌手、女優さんと将棋を指したことがある。
実戦経験は少なくてもそれぞれ個性があり、第一線で活躍している女性の頭脳の柔軟さのようなものが感じとれた。
岩下志麻さんが印象深い。
飛車は普通、初級の間は縦の線に狙いをつけるものだがこの人は異なっている。
途中、何げなく飛が中段に浮く、当初意味不明だがやがて分かってくる。知らずに飛の横線に入る駒があると、すかさずサッとかすめとるのである。飛車の横の線はうっかりしやすい。
大体女の人の将棋は、駒は捨てず取れるもの何でも頂くという傾向がある。敵の王様を詰ましにいくという残酷な考えはハナからない。六枚落というような大きなハンディをつけた時、上手はこういう相手がいちばんやりにくい。逆転のさせようがない。王様が裸にされ、詰んでないけれども投了ということになってしまう。
ひばりさんと一度でも将棋が指せていたら、と思うと残念でならない。どんな指し方をしただろうか、やはり手応えが違っただろうか。
昭和52年、NHKのスタジオでひばりさんと会った。
言葉をかわせるのはこれが最初で最後になるかも知れないという予感がしたが、私は彼女に近づいていく勇気がなかった。
傲慢、わがままといったイメージをマスコミからうえつけられていた。木で鼻をくくった返事をされたら、夢がこわれるという思いがあった。
ひばりさんの音合せ(リハーサル)を、私は一人離れた所に座り目をつむって聞いていた。―曲が終わると、何と彼女が一直線に私の前に来た。何年振りかのNHKひばり出演ということで取材に来ていた大勢の芸能記者カメラマンが、どやどやとその後につく。
「はじめまして、美空ひばりでございます」 週刊誌、スポーツ紙で知らされていたイメージとは、全く別の人がそこにいた。
私は驚いて立ち上がったが、その時何と返答したのか覚えていない。
「私の楽団にはね、将棋の好きな人が多いんですよ。内藤さん一度教えてやって下さい」
握手をしながらこう言ってくれた。
この時は挨拶言葉として聞きながしてしまったが、もしひばりさんの将棋のことを知っていたら、話もはずみ、或いは対局についての糸口も出来たかも知れない。
返す返すも残念なことであった。
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「私の楽団にはね、将棋の好きな人が多いんですよ。内藤さん一度教えてやって下さい」
ウソでもこんなことを言ってもらえれば嬉しいものだし、また、美空ひばりさんは本気で言っていたのではないかと思う。
人の気持ちをつかむとは、このような言葉のことなのだろう。
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今日は大晦日。
紅白歌合戦の大トリといえば「美空ひばり」という時代が長く続いた。
1984年の紅白歌合戦では、総合司会の生方恵一さんが、大トリの都はるみさんのことを「ミヤコさん」ではなく「ミソラ…」と言い間違ってしまったこともあったほど。
Wikipediaによると、この時、美空ひばりさんは親友の浅丘ルリ子さんらと自宅のテレビで紅白を見ていたという。Wikipediaの記述より。
1973年以降紅白には出場依頼が来ても受けなくなるなど確執があったがこの時、親友の浅丘ルリ子らと自宅のテレビで紅白を観ており、「あっ! ウブさん、今変なこと言ったよ」と浅丘と思わず顔を見合わせた後、「ウブさんったら、私のことホント好きなんだから」と苦笑いしたという。この場面をテレビで見ていたひばりの関係者は、「お嬢、大変なことが起きた!」と叫んだとされる。その後ひばりは「あのアナウンサーの人(生方)があれでNHKをクビになるんだったら、私が一生食べさせてあげなきゃ」とも話していた。
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お互いに最善手ばかりを指していたらこうはならない。疑問手が出るからこそ人間らしいし、ほのぼのとしてスケールの大きいエピソードも生まれるのだと思う。
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美空ひばりさんは、1970年の紅白歌合戦で紅組司会兼大トリを務めて、その時の歌は「人生将棋」(作詞:石本美由起 作曲:かとう哲也)。
作詞の石本美由起さん(男性)が将棋に詳しいのか、将棋が歌詞の中で非常に活かされている。